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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書2章1-18節 「本物のクリスマス」



1.クリスマスのお祝い

 クリスマスは喜びの時です。世界中の多くの家庭で、家族や友人たちと集まり、お祝いのときが持たれます。教会ではクリスマスの賛美、降誕劇などが行なわれます。飼い葉おけに寝ている赤ちゃんイエスを真ん中に、母マリヤとヨセフ、星に導かれて集まった羊飼いたちと東方の博士たち。

 博士たちが黄金、乳香、没薬の贈り物をささげる場面はとても感動的です。うす暗い家畜小屋の中で、希望の光として来られたキリストの誕生を喜びお祝いします。キリストは天から遣わされたメシア、預言者たちによって預言された救い主だからです。

2.クリスマスを喜ばない人たち

 しかし、このキリストの誕生を喜ばない人たちもいました。イスラエルを支配していたヘロデ王様はこのキリストの誕生の知らせを聞くと「恐れ惑った」と記されています。彼はキリストの誕生がいつだったかを調べさせ、キリストを抹殺しようとしました。理由は単純です。自分がイスラエルの王様なのに、別の王様が生まれたとなると自分の王座が脅かされるからです。

@キリストの時代
 ヘロデ王様と同様に、キリストが来られたことを喜ばない人たちが福音書には次々と登場します。祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人です。彼らは当時のイスラエルの指導的立場にあった人たちで、議員であったり、裁判官であったり、聖書を教える教師達でもありました。しかし、キリストが来られて聖書を見事に解き明かされ、自分たちが教えてきた言い伝えや慣習を否定されてしまったので、イエス・キリストに対し彼らは悪意を持つようになりました。また、多くの群衆がキリストの方へついて行ってしまったため、その人気のゆえにキリストをねたんだのです。

 指導者たちは最終的には群衆を抱き込み、キリストを十字架にかけて殺してしまいました。彼らは知らず知らずのうちに、メシアについて記された聖書の預言を成就させてしまったのです。しかし、キリストは墓のなかより三日目によみがえられ、御自身の神性とその教えの確かさを証明されました。キリストは私達に福音を語られました。どんな罪人もキリストの身代わりの死によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという福音です。

 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。エペソ1:7

「私は地獄へ行くような悪いことはなにもしていない」というかたがおられるかも知れません。しかし、聖書は「神を信じないことが最も大きな罪である」ことを教えています。あなたにいのちを与えておられる神様に背を向けて自分勝手に生きている・・それこそが罪なのです。キリストの福音は罪人の私たちにとって唯一の福音です。しかし、世界中の多くの人がその福音を喜ばず、ユダヤの指導者たちと同じようにキリストを追い出そうとしてきました。



Aローマ帝国時代
 ローマ帝国時代には、クリスチャンが急速に増えていったので、恐れを感じた歴代のローマ皇帝たちはクリスチャンに対する迫害を繰り返し、キリスト教徒を抹殺しようとしました。みせしめのためにローマの円形劇場でクリスチャンをライオンのエサにしたり、十字架に架けて火で燃やしました。

B日本の過去において
 日本でも同じようなことが起こりました。江戸幕府は増えていくキリシタンに恐れを感じ、1612年にキリスト教禁教令を発布しました。信仰をつらぬき通すキリシタンにはあらゆる拷問を加えました。殺すことより、信仰を捨てさせることが得策だと考えたためです。(なぜならキリシタン達は喜びながら殉教の死を遂げていたからです)

 迫害の理由として様々なことが挙げられますが、確かな事はキリシタンが増えると、幕府の権威が軽んじられるからです。当時、江戸幕府は「お上(おかみ)」と呼ばれていましたが、その命令は絶対でした。しかしキリスト教では命令されても人を殺すことや切腹をすることはできません。つまり、お上の命令であっても従わない。そうなると幕府の威厳が保たれなくなるという恐れからです。

Cアメリカにおいて
 BBN聖書放送の篠田先生より次のようなメールを頂き、唖然としました。

『アメリカのクリスマスは、いよいよイエスさま抜きのホリデーになりつつあります。牧師も公のところに招かれると、習慣通りお祈りをするのですが、「イエス・キリストという名前を出さないように!」と言われたようで、教会の牧師は、「それなら・・」と、断ったそうです。病院で働くチャプレンたちは、もうとっくにイエス様と言えずに祈ることを要求されています。またそうしてはいけないのだそうです。病院で礼拝もありますが、福音を語ってはいけないそうです。賛美も、イエスと言うことばが出る賛美はだめなのだそうです。南部でもこうなのですから、もはや、米国がキリスト教国とはいえません』

 アメリカには様々な人種の人がいて、色々な宗教の人がいるから、という理由なのでしょう。しかし、教会の牧師がクリスマス会に招かれて、イエス様の名前も、福音も語ってはいけないなら、何を話したら良いのでしょう? いったい、何のためのクリスマス会なのでしょう?



D現在の日本において
 考えてみると、日本のクリスマスもとっくにイエス・キリストが無くなってしまい、サンタクロースにすり変えられてしまいました。親はクリスマス近くになると子供たちに、「ほしいものがあったらサンタクロースにお願いしなさい」と言って、自分の子供をサンタクロースの信者にしようとします。
 青年になると、今度は「恋人がサンタクロース」です。なんでも欲しい物を買ってくれるからです。サンタクロースの格好でピザを配達している人たちもいます。クリスマス飾りにはサンタクロースのイラストが一杯です。どこにもキリストのキの字も見当たりません。そんなクリスマスが本物のクリスマスと言えるでしょうか? もし、イエス・キリストが現在のクリスマスに来られたなら、「わたしの誕生会はどこへ行ってしまったのか?」と、嘆かれることでしょう。

 イエス・キリストがこの暗く冷たい世界に来られ、天の御国の福音を宣べ伝え、最後に十字架でそのいのちをも捧げられたのは、サンタクロース祭りをさせるためではありません。人々に神の御心を示し、罪の赦しと永遠のいのちを与え、父なる神を誉め称える者とさせるためです。

3.キリストを締め出す理由

 ヘロデ王や宗教指導者たちがイエス・キリストを締め出そうとした理由には、自分たちの地位を守るためだけでなく、他にも理由があったでしょう。「今の自分の生活を変えたくない。今まで行なってきた慣習を止めたくない。新しい教えに対する恐れ」などです。

 福音を拒む人たちの多くはこう言われます。「キリストを信じると、酒も煙草も飲めなくなるからな〜」「日曜日には教会へ毎週来なくちゃいけないのでしょう?」と。確かに教会は酒を飲んで酔っ払わないようにと教えます。教会には喫煙所はありません。(私が知る限りでは)
 毎週教会へ来てくださいとお勧めします。しかし、それは勧めであって強制ではありません。クリスチャン生活の原則は自由だからです。使徒ペテロは次のように記しました。

「あなたがたは自由人として行動しなさい。」Tペテロ 2:16

 つまりクリスチャンは神様を信じた結果として、喜んで神様の御心を行おうとしているのです。

4.本物のクリスマスを祝う

 私は18歳の時にイエス・キリストを信じましたが、その当時の私の生き方も自由人でした。行きたい学校へ入学させてもらい、やりたいスポーツをし、やりたいこと(悪いことを含めて)をやっていました。しかし、今思えば、どぶの中に落ちたような生き方でした。太宰治の人間失格を読んだとき、まさに「これは自分の事だ!」と思いました。何の目的もなく、ただその日その日を自分の肉の欲に従って生きている・・・

 そんな時にイエス・キリストの福音を聞くことが出来ました。キリストが私の罪のために十字架で死に、よみがえられた!ーーこの福音を信じて救われました。今も私は自由人として歩んでいます。違うのは、かつてはみじめでしたが、今はキリストにある救いを感謝し、喜んで生活しています。黙示録3章20節に次の御言葉があります。

 
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 心の扉を開いてキリストを受け入れるなら、心が喜びで満たされることを約束しています。どんなに罪汚れた人も、キリストの十字架の血によって罪が赦され、永遠のいのちを持つと神様が約束しておられるからです。どんな人もです。

 水野源三(みずのげんぞう)と言うかたが素晴らしい詩を残しておられます。源三さんは9歳の時、赤痢のための高熱が原因で脳性小児麻痺にかかり、重度障がい者となり、手足を動かすことも話すこともできなくなりました。見ることと聞くことは出来ましたが、意思表示の手段は「瞬き」をすることだけでした。

 夢も希望も失われた残酷な状況のなか、訪問に来た牧師が置いていった聖書がきっかけとなり、イエス様を信じました。その後、47歳で天に召されるまで、心の思いをたくさんの詩や短歌、俳句にしました。後に彼は「瞬きの詩人」と呼ばれるようになりました。与えられた障害、苦しみを源三さんは次のように詩にしています。

「苦しまなかったら」

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった

もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった


 もうひとつは、クリスマスについての詩です。

「救いの御子の降誕を」 

一度も高らかに クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない

一度も声を出して クリスマスを祝うあいさつをしたことがない

一度もカードに メリークリスマスと書いたことがない

だけどだけど 雪と風がたたく部屋で

心の中で歌い 自分自身にあいさつをし

まぶたのうらに書き

救いの御子の降誕を 御神に感謝し喜び祝う


 どんな人でも、キリストを信じるなら罪を赦され、神の子供となり、心に感謝と喜びを持つことが出来ます。どうか心の扉を開けて、福音のことばを受け入れてください。