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心に響く聖書の言葉


主に感謝せよ 詩篇118:1-29節



1.主に感謝せよ


118:1 【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
118:2 さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで」と。
118:3 さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで」と。
118:4 さあ。【主】を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで」と。


 詩篇118篇は「主に感謝せよ。」で始まります。感謝する理由は、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」だからです。

「いつくしみ」という言葉は「慈悲、あわれみ」とほとんど同義です。また「恵み」も似ている言葉です。これらの意味は、上位の者が下位の者に対して持つ感情、また、行なう行為自体を指す場合もあります。私達が人にあわれみを乞う事はみじめな事ですので、敬遠します。それはプライドを捨てることだからです。

 しかし、神様と私たちとでは力の差は歴然です。神様から見た私たち人間は死を恐れるあわれな罪びとです。もし、神様のあわれみがなければ、私たちは一瞬でさばかれ、滅ぼされます。神様のあわれみによって生かされている存在が私達人間です。そのあわれな存在の私たちを、神様は心に留め、いのちを伸ばし、救いを与えてくださるのです。神様のいつくしみと恵みは永遠に変わることがありません。だから、私達は主に感謝するのです。

2.苦しみのうちから

118:5 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。【主】は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
118:6 【主】は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
118:7 【主】は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
118:8 【主】に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
118:9 【主】に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。


 感謝の理由の二つ目は、主が私を苦しみから救い出してくださるからです。

 詩篇118篇での苦しみの背景となっているのは、おもにエジプトでの奴隷生活、そしてバビロンでの捕囚生活も含まれていると考えられます。イスラエルの国としての酷い苦難がありました。同時に誰もが個人的な苦しみがあります。詩篇の著者は「主は私の味方。私は恐れない。」と告白しています。その様に告白できる人は幸いです。苦しみの中にあっても苦しみ自体は本当の問題ではありません。本当の問題は、私たちが誰に信頼しているかということです。本当に信頼できる方を信頼するなら、どんな逆境であっても平安を持つことができます。

118:10 すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
118:11 彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
118:12 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
118:13 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、【主】が私を助けられた。
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。
118:15 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。【主】の右の手は力ある働きをする。
118:16 【主】の右の手は高く上げられ、【主】の右の手は力ある働きをする。
118:17 私は死ぬことなく、かえって生き、そして【主】のみわざを語り告げよう。
118:18 主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。



 10〜13節では、敵やわざわいが取り囲んでいても、乗り越えていくことが出来ると教えます。主が助けてくださるからです。

 14〜18節は、試練の中から救い出された喜びの宣言です。
 実際、この世界には多くの苦しみがあふれています。たくさんの人が災害や紛争、貧困で苦しみ、亡くなる人もいます。しかし、それらの中にあっても神様はご自分の民を覚えておられ、祈りに応え、助け、支えてくださるお方なのです。それは信仰者に与えられている祝福です。なんと力強い助けを私たちは頂いているのでしょう!

3.礼拝者として

118:19 義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。
118:20 これこそ【主】の門。正しい者たちはこれより入る。
118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。
118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
118:24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。


 ここには救いの喜びをもって神殿に入っていく礼拝者の姿が描かれています。その神殿の基礎となったのは家を建てる者たち(つまりイスラエル)が捨てた石であると言われています。――旧約時代の人々には何の事だかさっぱり分らなかったでしょう。しかし、イエス・キリストが来られてこれを解き明かされました。神殿の礎の石とは、イスラエルに捨てられたキリストご自身なのです。(マタイ21:42参照)

――これは教会の基礎、および私たちの礼拝の基礎がキリストであることも教えます。かつてイスラエルはエジプトから救われ、捕囚から救われ、喜びを持って神殿で礼拝しました。現在、キリスト者はキリストによって罪の刑罰から救われ、永遠のいのちと聖霊を与えられ、喜びを持って教会に集い、礼拝するのです。

 礼拝という事を考えるなら、礼拝はささげる場所です。何かをいただく場所ではありません。感謝と賛美をささげ、祈りをささげ、そして、献金をささげる場所です。もし感謝することがないというなら、その人はキリストに信頼せず、一週間を過ごしたからに違いありません。

 私たちの信頼がキリストにあるなら、毎日の生活の中で感謝があふれるでしょう。たとい、大災害によって持ち物すべて失われた一週間だったとしても、十字架によって罪赦され、永遠のいのちと永遠の富をいただいている感謝をささげることが出来るのです。

4.祝福される礼拝者

118:25 ああ、【主】よ。どうぞ救ってください。ああ、【主】よ。どうぞ栄えさせてください。
118:26 【主】の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは【主】の家から、あなたがたを祝福した。
118:27 【主】は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
118:28 あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私はあなたをあがめます。
118:29 【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。


 25節は再び、「救ってください、栄えさせてください」と祈りの声をあげています。【主】だけが祈りに応えることが出来る偉大な神だからです。

 26-27節は祭司の招きだと考えられます。主の御名によって神殿に集まる人々に祝福を願う言葉です。しかし、イエス・キリストはこの言葉に隠された預言を解き明かされました。「主の御名によって来る人」とは、キリストご自身であり、エルサレム入城についての預言だと解き明かされました。エルサレムへ来られたキリストを受け入れなかった祭司長、パリサイ人等に対し次のように語られました。

マタイ23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」


 エルサレムへ入城されたキリストを拒んだイスラエルは、同時に自分たちに与えられる祝福と礼拝を拒んだことになります。

 私達は主イエスの御名によって教会に集い、主イエスの御名によって祈り、主イエスの御名によって礼拝をささげます。その人を神様は喜ばれ、救いと祝福を与え続けられます。主に信頼し、来年も感謝の礼拝をささげてゆきましょう。