マタイによる福音書28章16-20節 「イエス・キリストーその宣教命令」
参照箇所;マルコ16:14-20、ルカ24:36-53、ヨハネ20:19-31

 前回は、イエス様が墓の中からよみがえられた場面でした。クリスチャンの信仰の基礎には、主イエスの復活が欠かせません。使徒パウロがコリント人の手紙の中で次のように書いています。
Tコリント15:17 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
 私たちの信仰はキリストの復活にかかっているのです。ですから空っぽとなったイエス様の墓の弁証がとても重要となります。皆さんはイエス様がよみがえったことを説明できる準備があるでしょうか?「聖書に書いてあるでしょう!よみがえったものはよみがえったんだ!」では誰も信じてはくれません。復活は私達の希望でもありますから、いつでも弁明できる準備をしておきましょう。
Tペテロ 3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
 ※いくつかの弁証を挙げておきたいと思います。◎番兵たちが警備している中で遺体を盗むことは不可能。◎番兵たちの証言の矛盾◎主イエスが仮に墓の中で息を吹き返したとしても、大きな石を押しのけ、番兵たちを倒して帰るとは考えられない◎祭司長たちが復活を否定しようとするならイエス様の遺体を差し出せばよかったのに彼らは出来なかった◎弟子たちの真実な証言と殉教◎教会の誕生と日曜礼拝◎迫害者サウロ(パウロ)の回心◎キリストの教えは偽証、偽善を憎むもの◎預言の成就◎復活には多くの意義、目的がある◎復活は神様のしるしとして何度か起こった事である(旧約聖書にも記されている)。

1.ガリラヤの山にて

 マタイによる福音書、最後の箇所です。小説でも映画でも最後の部分は最も重要でしょう。マタイはこの書簡を終えるにあたり、イエス様の『大宣教命令』を記しています。それは弟子たちに対して主イエスが最も望んでおられる事だと言えます。そして私達クリスチャンにとっても同じです。
@弟子たちの礼拝と疑い
28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

 弟子たちはイエス様が指示されたとおり、ガリラヤへ行き、山へ登りました。彼らはそこに現れたイエス・キリストを礼拝しました。しかし、ある者は疑いました。この期に及んで何を疑うというのでしょう?復活された主イエスはすでにエルサレムでも弟子たちの前に現れたことが、他の三つの福音書には記されています。ガリラヤの山で弟子たちに現れたのは三度目か四度目でした。それでも弟子たちの幾人かは疑っているのです。「自分たちは夢を見ているのではないか」「幽霊ではないか」「このお方を礼拝していいのか?」という疑いがあったのでしょう。最後までマタイは自分を含めた弟子たちの弱さ、不信仰を隠すことなく記しています。
Aいっさいの権威
 イエス様は弟子たちに対して、まず権威について語られます。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 宣教命令の権威が、父なる神様から与えられたことを教えています。弟子たちはイエス様と共に過ごした間、イエス様に与えられた権威を幾度も見てきました。暴風を静める権威、病気をいやす権威、悪霊を追い出す権威、人の罪を赦す権威、人を生き返らせる権威・・・。そして彼ら自身も悪霊を追い出す権威と病気をいやす権威を与えられて宣教しました。それまでできなかったことが権威を与えられて出来たのです。権威とはそういうものです。しかし、イエス様が十字架で死なれ葬られたとき、弟子たちはイエス様に失望しました。父なる神はイエス様を救われなかったと、がっかりしました。イエス様が持っていた権威は完全ではなかったと、がっかりしました。それゆえ、イエス様のこの言葉は、弟子たちの落胆を吹き飛ばすものでした。復活された主は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と宣言されました。父なる神様が十字架の苦しみを耐え忍んだキリストを承認し、いっさいの権威を与え、すべての上に立つお方として権威を与えられたのです。
参照;エペソ1:20-21 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
 これまで著者マタイはイエス・キリストを「ユダヤ人の王として来られたお方」としてその権威を証明してきました。預言通りにユダヤ人の王として生まれ、ユダヤ人の王として御言葉を語られ、ユダヤ人の王としてエルサレム入城し、ユダヤ人の王として十字架で死んだのです。これがマタイによる福音書のテーマです。しかし、よみがえったイエス・キリストはユダヤ人の王という権威だけでなく、天地万物の支配者という偉大な権威を父なる神から与えられたのです。それはキリストが神と等しいお方、三位一体の神であることの証明でもあります。
参照;ピリピ 2:8-9 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2.大宣教命令

 父なる神から与えられた偉大な権威のもとに、イエス・キリストは弟子たちを再び宣教に遣わされます。当然、先の宣教とは比べ物になりません。その目的において、範囲において、価値において、はるかに上回っています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 ここには4つの命令があります。「行って」「弟子としなさい」「バプテスマを授け」「教えなさい」です。けれども、ギリシャ語を見ますと、実は1つの命令しかありません。「弟子としなさい」が命令形で、他の3つは、補う形で弟子にする方法を説明しているのです。ですから、福音宣教の最大の目的は、人々をキリストの弟子にすることです。
ヨハネ15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
28:19 Therefore go and make disciples of all nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, 20 and teaching them to obey everything I have commanded you. And surely I am with you always, to the very end of the age."NIV

 では、どのように人々を弟子としていくのでしょうか?
@出て行く
 待っているのではなく、未信者がいるところへ出て行くのです。何のためにでしょう?・・福音を伝えるためです。出て行って福音を伝え、その人を救いに導くのです。未信者の所へ行かなければ宣教は始まりません。じっと家に閉じこもっていてはいけません。教会の中に閉じこもっていてはいけません。出ていくのです。また、出て行って伝道することは教会成長の鍵でもあります。教会の中のことばかりに時間を取られていると問題が増え続けます。しかし出て行って宣教する事によって人々が救われ、救いの喜びで教会が満たされ、活気が与えられます。教会問題の解決は出て行って伝道することにあるのです。教会に集まるのは礼拝のためであり、交わりのためです。ここで神様と交わり、兄弟姉妹と交わりを持ちます。そうすることによって私たちは証しする力を与えられます。この礼拝から外に出ていく一週間の始まりがあるのです。教会から私たちはキリストの証人として遣わされていくのです。
Aバプテスマを授ける
 外に出て行って福音を伝え、人々を救いに導いたなら、キリストの弟子とするために次にすべきことはバプテスマを授けることです。バプテスマはキリストの弟子となるための最初の決心です。バプテスマは救いを与えるものではありません。もしバプテスマによって人が救われるなら、私たちは力ずくでも人を水の中に沈めるでしょう。
 バプテスマは神様が命じられている大切な礼典です。ですから私たちはバプテスマの本来の様式である全身を水に浸す方法でバプテスマを授けます。適当な省略した方法でバプテスマを授けたりはしません。そして父なる神、子なるキリスト、聖霊の御名によって授けます。三位一体の神の権威が与えられている事を宣言するのです。つまり、水のバプテスマを授けることは「あなたを今日からキリストの弟子として任命します」という意味があるのです。受ける側は『私は今日からキリストの弟子として歩んでいきます』という決心と告白のときです。
B教える
 弟子とするためにバプテスマを授け、そして教えなさいと命じられています。弟子とは学ぶ人の事です。キリストの弟子が学ぶのは、キリストの言葉であり、聖書です。そして、キリストにある敬虔な生き方をも学ぶ必要があります。さらにキリストの弟子となった人は、大宣教命令を学び、今度は自分が新しい弟子を作るために出て行くのです。
C対象と範囲
 弟子とするのは、「あらゆる国の人々」です。イエス様は、かつて12弟子を遣わしたときに、「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」(マタイ10:5-6)と言われました。伝道の対象はユダヤ人だけでした。けれども、新しい時代における宣教対象は、「あらゆる国の人々」です。そして、宣教の範囲は全世界です。マルコ16:15 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
D期限
 いつまで宣教をしたらよいのでしょう?・・世の終わりまで私たちは福音を宣べ伝え、人々をキリストの弟子とするのです。何歳まで宣教したらよいのでしょう?・・・私達クリスチャンにとって宣教の終わりはありません。定年はありません。生涯をかけてキリストの宣教を続けましょう。

3.主イエスとともに
 イエス様は弟子たちに世界宣教を命じられました。でも考えてみると、復活の主イエスに何度も会っているのに未だに疑っているような弟子たちに、そんな大役が務まるでしょうか?イエス様を見捨てて逃げてしまうような弟子たちに世界宣教が出来るでしょうか?また、私のような何のとりえもない、へなちょこな人間に世界宣教が出来るでしょうか? ・・弟子たちの力では到底無理です。私の力では何の役にも立ちません。ですからイエス・キリストの最後のことばは大きな光を放っているのです。
『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』
 何という大きな支えでしょう。弟子たちはイエス様を見捨てて離れていきました。けれど、今度はイエス様が「いつもあなたがたと共にいます」と約束されているのです。弟子たちの弱さを知りながら、不信仰を認めながら、それでも主イエスは共にいて支え続けることを約束してくださったのです。この約束に弟子たちはどれほど大きな励ましを受けたでしょう。そして、この約束は現在も宣教に携わるすべての人々に、大きな励ましと勇気を与え続けているのです。
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学びの終わりに
 マタイによる福音書の講解説教を終えることが出来、心から主に感謝しています。毎回毎回、準備するたびに御言葉が心に迫ってくる経験をしました。この感動を伝えたいと思いました。多くの説教者の説教や注解書を参照させていただく度に、いろいろな視点から福音書を見ることが出来ました。私個人では到底たどり着けない理解を得ることが出来ました。勿論、この講解説教が完全であるわけではありません。間違っている解釈や考え方が多々含まれていることでしょう。しかし、現時点で私に与えられた恵みに従って解き明かすことが出来たと感じております。いずれにしましても、マタイが記した福音書のメッセージはわたしたち一人一人にイエス様の生涯とその御心を示してくれる素晴らしい書簡です。十字架に向かって歩まれるイエス様の姿、十字架を取り巻く人々の不信仰と罪が心に残ります。あのゴルゴダの丘にあなたも私も居たのです。
 この説教の音声、テキストが、主イエスを信じ愛する人々のために用いられる事を願っております。批判からは何も良いものが生まれてきません。しかし、真理を深く知ろうとする探求は尊い事です。神様が与えられた聖書の言葉は、私達を導く唯一無二のものであり、オアシスの泉のようです。学ばれていくなら必ず神様の大きな祝福にあずかります。御言葉を愛して学ばれる方々の上に父なる神様の豊かな祝福と、救い主イエス様の恵みと平安がありますように。