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心に響く聖書の言葉


聖書が教える福音 Tコリント11章17-22節

1.福音とは

 福音とは何ですか?という問いに、クリスチャンの方々は「イエス・キリストの十字架による救い」だと答えられるでしょう。また、一般世間でも福音という言葉がしばしば用いられます。「がん患者への福音」とか、「アレルギー改善の福音・・・」等、朗報という意味で用いられます。国語辞典を引くとそこにも二つの意味が解説されています。
@ 喜びを伝える知らせ。
Aイエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。
 原語のギリシャ語は「エヴァンゲリオン」で、日本ではアニメの題名となっていましたのでご存知の方も多いことでしょう。それは「良い」+「知らせ」という意味です。(英語では「Gospel」が一般的です。)したがって福音とは「神様からの良い知らせ」であり、クリスチャンとは、「神様からの良い知らせを受け取り、喜びの人生に変えられた人」と言えるでしょう。

2.福音が約束していない幸せ
 しかし、次の聖書箇所は、教会に集っているクリスチャンに宛てて書かれたのですが、まったく様子が違います。
1コリント11:17-22
ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。

 使徒パウロが書いたのですが、「あなたがたをほめません」と厳しい言葉です。「あなたがたは食事のために教会に来ているだけだ!」と叱責しています。何の事を言っているのかと言うと、教会で行われる礼典の一つ「主の晩餐」のことです。主の晩餐(聖餐式)は、イエス様が弟子たちに命じられたもので、イエス様の裂かれた体と流された血潮を覚え、記念としてパンを食べ、ぶどう酒を飲むことです。現在、多くの教会ではぶどう酒ではなく、ぶどうジュースが用いられています。教会には未成年者もいますし、車を運転して帰られる方も多いからです。(アルコールを飲まないと決心しておられる方々もいます。)コリントの教会では主の晩餐用に用意されたパンとワインを、教会に早く来た人たちが我先にと食べて飲んで、酔っ払う人までいました。そして後から来た人たちの分のパンとぶどう酒がなくなってしまったのです。当然後から来た人たちから苦情があふれました。それで「あなたがたは神の教会を軽んじているのか!」とパウロは怒り心頭です。
 コリント人への手紙を読んでいくと分かることですが、コリントの教会は実に問題ばかりの教会でした。その原因として考えられるのは、
@コリントという町自体にも問題がありました。アフロディトという女神が祭られ、この女神に仕える千人の巫女は神殿売春婦でした。宗教的堕落、道徳的堕落があり、当時「コリント人のようにふるまう」ということわざは「不品行を行う」ことを意味したほどです。
Aコリント教会はパウロの伝道によって設立された教会でしたが、パウロが去った後、正しく教え導く指導者がいなかったことも大きな原因でした。
B新約聖書がまだ成立していなかったことも原因でした。福音を聞くには聞いて信じたのですが、その後の成長がありませんでした。そのため仲間割れが生じ、不品行を行う人、偶像を拝む人が出てきました。異言の問題もあって集会は混乱していました。
 クリスチャンでない人がコリントの教会を見たら、「聖書の福音は何の役にも立っていない!」と思うはずです。では現在の私たちの教会はどうでしょう?問題がないと言えば嘘になります。「神は愛です」と教えながら、クリスチャン同士が憎み合っているではないか!教会は問題ばかりではないか!と批判を浴びるかもしれません。そのような批判を教会、クリスチャンは真摯に受け止めなければならないでしょう。

 しかし、問題ばかりの教会や問題ばかりのクリスチャンを見て、「聖書の福音には何の価値もない」と判断しないでいただきたいのです。聖書の福音は私達に問題のない人生を約束してはいないからです。聖書の福音を信じたら、一瞬で聖く正しい人になるとは教えられていません。聖書の福音を信じたら、家庭が常に円満になると書かれてはいません。聖書の福音を信じたら、収入が増えて楽な生活になるとも教えていません。聖書の福音を信じたら、災害に遭うことはないと書かれてはいません。「それじゃ聖書の福音を信じても何も良いことがないじゃないか!」と言われるでしょう――いいえ、聖書の福音はそれらに勝る幸せを約束しているのです!

3.福音が約束している幸せ

@大災害の中で
 福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生が書かれたトラクトにとても感銘を受けましたのでご紹介させていただきます。
「私の故郷は、福島県太平洋沿岸です。その土地を、千年に一度の巨大地震と高さ14mの大津波が襲いました。そして、原発事故が起こりました。福島第一原子力発電所からちょうど5qのところにある私たちの教会は閉鎖となり、故郷に住む人たち7万人が、なんと一日にして家を追われました。まるで戦時下のように人々は逃げまどい、お金も食べ物もガソリンもなく、冬空の下、私も教会のメンバーとともに震えながら故郷をあとにしました。・・ここで、お伝えしたいことの第一は、それでも神様は私たちを愛しているということです。震災当時、牧師である私は、教会に通っていた人たちも「もう神様も何も信じられない」と言うのではないか、と恐れました。こんなにひどいことが起こって、故郷がめちゃくちゃになり、「神様は私たちのことが憎いのだ」と言うのではないかと。けれども、違いました。あるご婦人は津波に追いかけられ、別の人は津波に流され、ある人は心臓に痛みが走り、生死の境をさまよいましたが、口々に「私は神様に救われた。これほど神様を感じたことはない」と証言しました。・・その渦中で神の愛に出会ったと語ったのです。」
 不思議です。災害に遭ったなら普通は落胆し、気力を失い、神も仏もないと失望するはずです。しかし、クリスチャンの方々は災害の中に神様の愛を発見できたと言うのです。逆境の中にあっても失われない平安――これが聖書の福音の力です。

A使徒パウロ
 使徒パウロはコリント教会の人たちにあえてもう一度、福音とは何かを教えています。コリント教会で問題ばかりが噴出する理由は、彼らが福音を正しく理解していないからだと考えたからです。
Tコリ15:1-11 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

 福音は私達にイエス・キリストこそ救い主であることを教えます。そしてキリストを信じる人はそのすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられること、そして復活の希望が与えられる事を約束しています。
 パウロはここで自分の証しも書いています。彼はかつてクリスチャンを迫害しましたが、その罪も含めてすべて赦されたことを喜び、使徒として働けることは神様の恵みだと感謝しています。彼は生涯をかけて聖書の福音を宣べ伝えました。そのため彼はひどい迫害、苦しみを味わいました。幾度も死にそうになり、寒さに凍え、人々から憎まれ殺されかけました。けれどもそれらの苦難を受けても余りある神様の祝福を喜びました。彼の宣教を支え続けたのは、聖書の福音の力でした。

B有名な聖歌
 アメージング・グレース「驚くばかりの」を作詞したのはジョン・ニュートンと言うイギリス人でした。ジョンの母親は熱心なクリスチャンで、彼に聖書の話をよくしていたそうです。商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったジョンでしたが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送する「奴隷貿易」をするようになりました。当時、奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪でした。そのため多くの奴隷が目的地に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したそうです。
 ジョン・ニュートンが22歳の時、船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥りました。経験したことがない恐怖の中で、それまでの自分を振り返り、母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、軍役から逃げ出し、そして神を愚弄しあざ笑っていたことなどを思い出しました。彼は初めて真剣に神に祈りました。すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのです。彼はこの日に信仰を持ちました。しかしその後の6年間、ジョンは奴隷を運び続ける仕事を続けています。ただ彼の船に乗った奴隷への待遇は飛躍的に改善されたと言われています。彼はクリスチャンになったのですが、その後の6年間は悩み苦しんだはずです。罪の生活を捨て切れなかったからです。信仰と金儲けの汚い生活を天秤にかけた生きかたでしたから、心からの礼拝を神に捧げることは出来ませんでした。
 ジョンは病気を理由に船を降り、ジョージ・ホイットフィールとの出会い、ジョン・ウエスレーとの交流もあり、聖書を深く学び、牧師となりました。そして1772年に、「アメイジング・グレイス」を作詞しました。この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔い改めと、それにも関わらず赦しを与えてくださった神様の愛に対する感謝が込められているのです。

 聖書の福音は私達に神様が本当におられることを教えます。そして、イエス・キリストの十字架は、私たちの心がいかに汚れたものかを悟らせ、悔い改めさせ、すべての罪の赦しを与えます。聖書の福音は、私達にこの世が与えることが出来ない平安と希望を与え、永遠に続く幸せを与えてくれるのです。