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心に響く聖書の言葉


キリスト復活の謎 ヨブ記19章19-29節 



 イースターはキリストの復活を記念する日です。キリストが復活されたという良き知らせは、クリスチャンにとって最も記念すべき事であり、キリスト教信仰の土台となっている出来事です。今日は「なぜキリストは墓の中からよみがえらなければならなかったのか?」に焦点を当てて学びたいと思います。

1.復活は人の希望

19:19 私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。
19:20 私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。
19:21 あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。
19:22 なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。
19:23 ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。
19:28 もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、「彼をどのようにして追いつめようか」と言うなら、
19:29 あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。


 ヨブは偉大な信仰者でした。しかし、神様から試練を与えられ、悲惨な目に遭います。
10人の子供達を災害で亡くし、すべての財産を失いました。さらにヨブ自身は重い皮膚病に侵され、見るも無残な姿となり死を待つばかりでした。愛する奥さんからは「神を呪って死になさい」と言われ、見舞いに訪れた友人たちからは「あなたが罪を犯したから神様にさばかれているのだ。罪を悔い改めよ」と責められました。

 ヨブは失意と嘆きの中にありましたが、それでも神様の愛と正義を信じ続けます。ヨブは父なる神様の事を「私を贖う方」と呼んでいます。

19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

 贖うとは「買い戻す」という意味があります。「人手に渡った財産や土地を買い戻すこと。奴隷を身代金を払って自由にすること。」――つまり、どん底の人生に突き落とされた自分を神様が必ず買い戻してくださり、試練に代えて祝福を与えてくださると信じているのです。今は苦しんでいるが、苦しんだ分だけ神様は多くあわれんで報いてくださるはずだと。

 ただし、それはヨブにとって復活の希望となっています。ヨブはすでに死を覚悟していたので、死んだ後の事に目を向けていたのです。「神様は必ず私をよみがえらせ、私は再び自分の目で神を見、報いを与えられる」と信じたのです。次の言葉によって、ヨブが復活の信仰を持っていたことが分かります。

19:26私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。


 考えてみるなら、この世は常に不公平です。生涯裕福に暮らす人もいれば、貧困にあえいだ挙句、苦しんで死ぬ人がいます。長寿を全うして死ぬ人もいれば、若くして不幸にも亡くなる人もいます。この世は常に不公平です。神様がおられるなら、なぜこのような不公平を許されるのでしょうか?神様は誰をもえこひいきしない公平なお方だと聖書は教えているのに、なぜ現実は違うのでしょうか?・・その答えは、イエス様の次のことばによって理解されます。

ヨハネ5:29 「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

 すべての人は死んだ後、よみがえって神様の正しいさばきを受けることが人間には定まっている・・だから復活があるという事は、不公平と矛盾だらけの世の中にあって、すべてが是正される最後の希望なのです。したがって、イエス・キリストが墓の中からよみがえられたことは、「すべての人はよみがえる」ことの確証となったのです。

2.復活は福音の確証

A.キリストの復活

 イエス・キリストが墓の中からよみがえられたことは、神を信じる信仰者の希望の確証となっています。それは、
@神様がおられる事
Aイエスが救い主であること
B福音の約束が間違いないこと
――を証明したのです。

 福音の約束とは、イエス・キリストを信じるなら罪赦され、永遠のいのちを持つという約束です。主イエスの復活は、「信仰者は死んで終わりではない」ことを明らかにしました。そしてイエス様が肉体をもってよみがえったことは、信仰者も肉体をもってよみがえることの確証です。

B.被造物の復活

 「人は復活する」という聖書の教えを信じられない人もいるでしょう。しかし、私達は神様が創られたこの世界を見るときに、いのちが復活しているのを常に見ているのです。

ローマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 被造物によって神の永遠の力と神性が認められるとパウロは教えています。つまり、自然を通して「私たちには復活がある」ことを理解できるのです。

 一例として、植物の種は地に落ちて死んだように見えますが、時期が来ると芽を出します。なかには数百年経った種が芽を出すものもあります。植物学者でハスの権威者でもある大賀(おおが)一郎博士が縄文時代の遺跡から見つかったハスの種の発芽育成に成功し、「大賀ハス」と呼ばれて、各地で観賞会が行われています。二千年を経て花を咲かせたのです。生き返ったと言うしかありません。また、冬の間、桜の木は花も葉も落ち、枯れたように見えます。しかし、暖かくなると葉が付き、つぼみが膨らみ、一斉に花を咲かせます。私達は被造物を通して、いのちの復活という神様の奇蹟を常に目の当たりにしているのです。

C.ラザロの復活

 ヨハネによる福音書11章には、復活をかたくなに信じない人のためにイエス様が行なわれたしるしが記されています。

ヨハネ11:17-22 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」


 ラザロが死んで葬られ、家族であるマルタとマリヤの深い悲しみが伝わってきます。死は私達人間にとって最も悲しい事であり、だれも死から逃れることが出来ません。マルタはイエス様に「もっと早く来て下さったら、ラザロは死ななくて済んだのに・・」と、悲しみを訴えます。そのマルタにイエス様は次のように言われました。

ヨハネ11:23-27 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」


 マルタにとってイエス様が語られた「あなたの兄弟はよみがえります」は、「天国へ行った」ということで、慰めの言葉として受け取りました。日本で葬式に参列すると、「故人は今、天国から私たちを見守ってくれています」と弔辞が述べられます。そう信じて言っているのではなく、そういう言葉でしか慰めることが出来ないからです。誰も真実と本心を言うことが出来ません。葬式は慰めのための偽善で満ちています。

 イエス様のことばも慰めの偽善でしょうか?・・そうではありません。マルタたちに復活があることを教えるために最も確実な方法は、死んだラザロをよみがえらせることでした。「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれると、腐りかけていたラザロの遺体は元に戻り、彼はよみがえりました。イエス様はこのしるしによって、「人は復活する」ことを証明されたのです。



 このしるしによって多くの人々がイエス・キリストを信じました。しかし、それでも信じない民の指導者たちはイエスを信じるどころか、彼を殺そうと計画します。信じようとする心がなければ、どんなしるしを見ても信じることができません。

 イエス・キリストはすべての疑いを払拭し、ご自身が救い主であることを証明するために墓からよみがえらなければなりませんでした。信じる者には罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、死んでも生きるという約束を証明するためです。イエス・キリストはご自身で預言された通り、日曜日の朝、みごとに墓の中からよみがえられたのです!

 毎週日曜日の朝、クリスチャンはキリストのよみがえりを記念して教会に集い、礼拝します。それは私達がキリストと共に生きており、死んでもキリストと共に生きることの証しなのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
ヨハネ11:25 -26

 このイエス様の質問に、「はい、信じます」と答えられますように。