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心に響く聖書の言葉


人生、何度でもやり直せる! Uコリント人への手紙4章5-18節



1.人生をやり直したいと思うとき

 あなたは人生をやり直したいと思うことがあるでしょうか?・・もっと勉強しておけばよかった、、もっと金持ちの家に生まれたかった、、もっと美男美女に生まれたかった・・と、言い出せばきりがないでしょう。さらに深刻な理由で「人生をやり直したい」と願う人もおられるはずです。

@挫折した時
 挫折した時や取り返しのつかない大失敗をした時、誰もが人生をやり直したいと思います。一生懸命働き、誠心誠意仕えてきた会社からリストラされ放り出されたなら、挫折を味わいます。やり直せるものならやり直したい、もう一度新しいスタートラインに立ちたいと願います。

 旧約聖書に登場するヨブは、まさに幸せな生活から転落の人生を味わった人でした。子供十人に先立たれ、すべての財産を失い、ヨブ自身は悪性の皮膚病に侵されました。そのような逆境の時、人は挫折し、人生をやり直したいと思います。

 周りの人はあなたを慰めようとして言葉をかけてくれるでしょう。しかし、人の慰めの言葉はほとんど役に立ちません。なぜなら問題は続き、現実は変わらないからです。

 以前、教会へ来られた中年男性の方は、「すべての事に対してやる気が起きない。生きていても喜びがない。もっと前向きに生きたいが気力が起きない」と苦しんでおられました。聖書から励ましの言葉、そして福音をお伝えしましたが、その人の苦しみを私はどれだけ理解出来ただろうかと思います。その人の心の傷み苦しみを分かってあげたい。しかし、本当に理解できるかと言えば嘘になります。人の苦しみは本人しか分からないからです。一人一人抱えている問題、与えられている試練は違います。一人一人、性格も感情も違い、今まで歩んできたバックグラウンドが違うからです。

A罪の呵責に苦しむ時
 私達が持つ悩み苦しみの中でもっとも苦しく、心を締め付けるのは、罪を犯したことによる悩み苦しみです。胸に手を当てて考えるなら、誰もが人に言えない罪を隠し持っているはずです。人を裏切ったことや、物を盗んだこと、欲求に負けて行なった不品行のことなど。そういう時、私達は自分が嫌で嫌でしょうがなくなります。やり直したいと思います。

 罪を犯すことが人間が幸せになれない最大の原因なのです。しかし弱いところから私たちは崩れてしまいます。抑えることのできない欲望が身を滅ぼします。「忘れてしまえ、誰でもやっている事だ、もう苦しんだから十分だ・・」と開き直ってみても、罪の負い目はぬぐえません。生涯、罪の呵責は心に残ります。罪を犯した相手がいる場合、その人からゆるしていただいたとしても、罪の負い目は決して無くなりません。罪を犯した事実は残り、事ある毎に思い出されて、心を責めるからです。

2.福音によってやり直せる!

 しかし、誰でも聖書を学び、福音を信じるとき、人生をやり直すことが出来ます。福音はあなたを罪の呵責から解放してくれます。それはイエス・キリストによって新しく生まれることが出来るからです。使徒パウロは次のように告白しています。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。


 精神的にも肉体的にも追い詰められ、八方ふさがりとなったとしても、私は大丈夫だ!と確信しています。どうして福音にそのような力があるのでしょうか?なぜ、イエス・キリストの福音は私たちを立ち直らせることが出来るのでしょうか?

@偉大な神様がおられることを知るから

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。


 福音によって偉大な神様がおられることを知るので、私達は立ち直ることが出来ます。イエス・キリストはその生涯をかけて創造者である父なる神がおられる事を示し、父なる神の御心に従って歩むことが、私たち造られた人間の生きる目的であると教えられました。暗闇の中に光を造られた神様だからこそ、私達の心の暗闇に光を与えてくださるのです。

 神様を知らない人にとっての生きる目的は何でしょうか?・・自分の欲望のためと言えるでしょう。「食べたい、遊びたい、学びたい、楽をしたい、偉くなりたい」という欲求に従って生きています。「私は人のため生きてきた」と言われる方がおられるかもしれません。しかし、それは「感謝されたい、自分の義を示したい」という自己満足の現れでしかありません。その証拠に「ありがとう」の一言も無ければ、腹を立てるのではないでしょうか。

 しかし福音によって創造者を知り、自分が目的を持って造られたという事を知るなら、生きる目的が変わります。そして神様があなたを愛しておられることを知るなら生き方が変わります。自分の欲望のためでなく、創り主のために生きるようになります。

 また、神様を知らないなら、一時的なこの世の幸せを求めて生きているのではないでしょうか。目に見えるもののために生きていると言ったらよいかもしれません。しかし、キリストの福音は私達に永遠があることを教えています。目に見えるものは一時的で、無くなってしまう物であることをキリストの福音は私達に気付かせてくれます。神様を知ることは永遠に目を向けることなのです。



A最高の立場に変えられるから

 二つ目の理由は、最高の立場に変えられるからです。次の言葉は、キリストを信じる人に与えられた神様の約束です。
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 イエス・キリストを信じるとき、神の子どもという特権を与えられます。それは永遠の神様の相続人でもあります。日本において、皇太子はとても尊ばれます。日本の天皇の地位を引き継ぐ人だからです。しかしキリストを信じる人にははるかに高い地位である神の皇太子という立場が与えられるのですから、私達は胸を張って歩くことが出来ます。

 しかし、誰でも神様の子どもになれるのではありません。聖い神様の子となるためには清くなければなりません。罪汚れたままでは神の子どもという特権は与えられません。そのために救い主イエスがこの地上に来てくださいました。十字架に架かり、私達が受けなければならない罪のさばきを身代わりとなって受け、死なれました。神様はこの尊い犠牲により、イエス・キリストを受け入れた人の罪を赦し、神の子という特権を与えると約束されています。ですからキリストは私達に与えられた神様の宝なのです。

 罪の負い目が私たちの悩み苦しみであると話しました。もし再び同じ罪を犯したなら、さらに重いさばきが待っていることを知っているので私たちは恐れます。しかし、創造者がキリストの十字架により「あなたの罪は赦された」と宣言される時、私達は真実に罪の刑罰と罪の呵責から解放されます。永遠に存在され、すべてを超越された権威あるお方が「あなたの罪は赦された」と言ってくださるのですから、罪の負い目は吹き消されます。なんと驚くべき恵みでしょう。

B永遠のいのちが与えられたから

 三つ目の理由は、福音を信じるなら永遠のいのちが与えられるからです。その約束の確証のために神様はイエス・キリストを墓のなかより三日目によみがえらせたのです。イエス・キリストがよみがえられたことは、私達も死んだ後によみがえることを証明したのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。


 キリストを信じる者に永遠のいのちが約束されています。だから、この世においてどんなに苦しみにあっても、八方ふさがりのように見えても、所詮、一時的です。それどころか全能者が味方となって支えてくださるのです。ですから、「自分はもうだめだ」と思う必要は全くありません。あなたを造られた神様が常に救いの手を差し伸べておられることに気付いてください。イエス・キリストの福音のことばを信じてください。福音によって私達は人生をやり直せるのです。

 たとえ失敗し、再び罪を犯したとしても、福音を信じる人には永遠の赦しがあります。それはイスラエルの歴史で証明済みです。イスラエル人は何度も不信仰を繰り返し、神様から離れてしまいました。そのたびに戦いに負けて厳しい生活を強いられたり、さばかれて外国へ捕囚されました。しかし、神様は決してイスラエルを見捨てられませんでした。わがままな子供を叱りながらも決して見捨てない母親のように、神様は彼らを見捨てられませんでした。同じように主イエスを信じる人々を神様は決して見捨てられないのです。だから私達は何度でもやり直せるのです。

 次の聖書のことばは真理です。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 福音を信じるなら、人生何度でもやり直すことが出来ます!