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心に響く聖書の言葉


子供祝福日 礼拝説教



「子どもたちをわたしの所に」


ルカ18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」


1.幼子を追い出す弟子達

 ルカ18章ではイエス様が祈りについて教えておられる箇所です。高慢な心で祈るパリサイ人と、自分の罪を嘆きながら祈る取税人。神様はパリサイ人を受け入れずに取税人を義と認められました。私達の心を探られるメッセージです。

 その時、親たちが幼い子どもたちを連れてイエス様の元へやってきました。「さわっていただこうとして・・」とは、当時の慣習では「手を置いて祝福してもらおう」としたのでしょう。それを見て弟子たちが叱りました。「みんなの邪魔になるからあっちへ連れて行け」と追い払おうとしたのです。たしかに数百人、数千人が集まってイエス様のことばに耳を傾けている状況の中では、赤ちゃんの泣き声や幼い子供たちのはしゃぐ声、ぐずる声は「うるさい」の一言です。教会でも「子供たちがいるとうるさくて説教に集中できない」という苦情が上がるので、礼拝中はナースリーを設けて子どもたちは別室で奉仕者が面倒をみたらいいと考える人も多いのです。

2.幼子を受け入れるイエス様

 しかし、イエス様のことばに耳を傾けるなら、そのような考え方を訂正すべきだと教えられます。


18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」


 連れてこられた幼子たちは全員が静かにしていたわけではないでしょう。それで弟子たちは子どもたちを邪魔者扱いしました。しかし、イエス様は「止めてはいけません」と言われ、子どもたちを受け入れました。

 さらに「子どものように神の国を受け入れなさい」と言って、子どもたちから学べと教えられました。高慢な心で祈るパリサイ人と、自分の罪を嘆きながら祈る取税人の話からメッセージが続いているのです。パリサイ人から見た取税人は神様のために全く役に立たない人でした。大人たちから見た幼子たちは神様のために全く役に立たない人でした。しかし、神様の目から見たなら反対なのです。罪を嘆く取税人、何のおごり高ぶりもない幼子たちこそ神様に受け入れられるのです。

 ですから私達は気をつけなければなりません。聖書を学べば学ぶほど高慢になりがちです。教会での奉仕を熱心にすればするほど、弱い人をさばいてしまいます。
「私は主のために懸命に奉仕しているのに、あの人はどうして奉仕できないのか?」と。肝に銘じておかなければならないことは、自分もイエス様の十字架によって赦された罪びとであることを忘れないことです。
 イエス様のことばに学びましょう。


18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」


 子どもの様な純粋な信仰を持ち続けましょう。高慢にならず、へりくだりましょう。弱い人、小さい人、そして子どもたちを受け入れることはイエス様を愛することなのです。

 だからと言って子どもたちが礼拝中騒がしくても、我慢しなさいという事ではありません。子どもたちには静かにしてほしいと思います。親は自分の子どもが静かにできるよう工夫し努力すべきです。礼拝で騒がしくしたときに叱るというより、礼拝に来る前から子どもたちが静かにお話を聞けるようにしつけることが大切です。それは親としての責任です。

 親が礼拝出席を大切にしている熱心な態度があるなら、それは子ども達にも伝わります。また、教会の兄弟姉妹も自分の子どもではないからと言って無関心を装ったり、騒がしくする子どもと親をさばいたりしないで、寛容な心をもって子どもたちが静かにできるように協力してほしいと思います。神様の家族の一員として、
子どもたちと関わりを持ってほしいと思います。

3.子どもとして生きる(子供達にもわかりやすくお話しします。)

 イエス様は私達を救うために人間としてお生まれになりました。神様なのに私たちをさばきから救うために身代わりとなって十字架に架かり苦しまれ、死んでくださいました。しかし墓の中から見事によみがえられ、救い主であることを証明されました。イエス様を救い主として信じる人には素晴らしい約束が与えられています。それは天国に必ず入れるという約束です。そして神様の子どもになるという約束です。私たちは両親から生まれたのですが、イエス様を信じたら神様の子どもにもなるのです。

 ひとつ質問があります。子どもとして生きていくために必要なことは何でしょうか?

A.両親の子どもとして必要な事

 @ご飯を食べる事;生きていくため、そして体が成長するために必要です。
 A寝る事;寝て休みを取らないと疲れが取れません。元気が出ません。
 B両親に従う事;子どもとして両親に従う必要があります。



「学校へ行きなさい」と言われたら行かなければなりません。「お手伝いして」と言われたらお手伝いをしなければなりません。両親から〜しなさいと言われる事は実はうれしい事です。もしも次のように言われたらどうでしょう?

 「お父さん、お母さんが働いて何でも買ってあげるから、お前は何もしなくいいよ。勉強なんてしなくていい。学校も行かなくていい。お手伝いなんてとんでもない。何もしなくていいよ!」
・・始めは好きなことを好きなだけしていればいいのですから楽しいかもしれません。でもそのうちに寂しくなってきます。勉強や仕事をしないなら、生きていてつまらないと思うでしょう。

「何もしなくていい」というのは誰からも必要とされていないことです。だから両親のことばに従う事は大切です。あなたが成長するためにすべきことを両親は教えてくれるからです。

B.神様の子どもとして必要な事
 神様の子どもとして生きていくのに必要な事が三つあります。



 @ご飯を食べる事; 神さまが与えてくださるご飯とは・・聖書の言葉です。聖書の言葉を読んで心の中にたくわえることが大切です。聖書は心が成長するための大切なご飯です。

 A寝る事; 寝る事と言うのは、休みを取って教会に行くことです。勉強や仕事は大切な事ですが、休まなかったら眠くてだるくて気力が出ません。休みを取らなかったらいつか病気になります。だから勉強も仕事も休みが必要です。同じように心の休みを取るためには教会へ行くのです。
 もし、教会へ行かなかったら心の休みが取れません。心が疲れて元気がなくなります。そうすると、悪魔の誘惑に負けてしまいます。悪魔の誘惑に負けると、心が病気になって悪い事ばかり考えるようになります。休まないで仕事ばかりしていると頭のなかはお金儲けの事ばかり考えてしまいます。お金が神様になってしまいます。だから私達は学校、仕事を休んで日曜日に教会へ行くという事は大切な事なのです。

 B神様に従う事; 神様の子どもになった人は、神様に従う事が大切です。神様の命令はたくさんありますが、その中で大切なのは、「神様を愛しなさい。人を愛しなさい。イエス様の福音を伝えなさい。」です。
 もし、「イエス様を信じれば天国へ行けますから、信じた後は聖書なんて読まなくてもいい。祈らなくていい。教会へ行かなくていい。伝道しなくていい。」と言われたらどうでしょう。・・・楽な信仰生活だと思うかもしれません。しかしそんな生活はとてもつまらないでしょう。イエス様を信じても何も変わりません。兄弟姉妹との交わりもないなら楽しくありません。しかし、神様の命令を聞いて従って生きるなら、生活が生き生きします。悪い生活から正しい生活に変わります。そして、あなたが喜んで神様に従うなら、神様はあなたの祈りをいつも聞いてかなえてくださいます。そこに神様の子どもとして生きる喜びがあるのです。

 バングラディッシュで宣教しておられる宣教師から報告をいただきました。病院、教会、神学校の働きに加え、親が貧しいゆえ育てることのできない子供たちを引取り、ホステルと呼ぶ施設で子供たちを養っておられます。そのホステルに住むようになった子供たちの証しがあります。

◎ロトナさん(小学3年生)
 「私は女の子だけれど伝道師になりたい。伝道することは私の大きな希望です。私の村にはたくさんの未信者がいて、男の人はお酒を飲んで、ジュア(賭け事の一種)をして悪いことをしています。それだけでなく子供たちにも悪い道に引っ張っています。私の村には一人も伝道する人がいません。だから御言葉を聞く機会もありません。村にいた時は、私も友達と一緒になって悪いことをしていました。でもホステルに来てはじめて御言葉を聞いて、自分は罪人だとわかりました。そしてイエス様を信じようと決心しました。それから2012年にバプテスマを受けました。今、私ははっきりとわかったことがあります。だから村の人のことを思うととっても悲しいです。いつか自分の村に帰って福音を語りたいのでお祈りしてください。」

◎ダウド君(小学4年生)
 「僕は仏教徒の家族に生まれた。僕の村に伝道しに来た人から聞いて、イエス様を信じた。2010年9月にナトールに来てバプテスマを受けた。そのあと神様はナトールのホステルに入れるようにして下さった。僕たちのホステルの朝と夕方の礼拝で御言葉からたくさん習っている。僕が信じただけでは十分でなく、僕のお父さんやお母さん、兄弟もイエス様のことを知らなくてはならないと思った。僕はそれからお父さんやお母さんにそして兄弟にも証をした。村の人たちのことも考えた。僕の村の人たちの多くは仏教徒で、その他にムスリム(イスラム教徒)の人たちもいる。村の人たちはみんな偶像礼拝している。その上、お酒を飲むしチュアニを飲んでけんかばかりしている。神様が喜ばないことを村の人たちはしている。例えば、盗み、うそ、など。悪い考えで満たされていると感じる。
 僕は村の人たちの様子を聞くと、とっても悲しいし涙が出てくる。本当の神様を信じないで偶像のほうにばかり行っているから。僕は御言葉を聴いて村の人たちが罪から救われるようになってほしい。しかし村の人たちは、御言葉を聞きたがらないし、受け入れたくない状態だ。僕が大きくなったら、村の人の前で証が出来るように祈ってほしい。御言葉によって村の人たちをイエス様のほうへ導けるようにお祈りしてほしい。」

 彼らはとても貧しいこどもたちです。親が育てることが出来ないため預けられた子供達です。でもイエス様の事を信じているので、心は貧しくありません。悪い大人たちのために悲しみ、村の人たちにイエス様の事を伝えたいと祈っています。純粋に神様を信じています。次のイエス様のことばを心に留めましょう。

18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」