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心に響く聖書の言葉


「十字架の愛」 ルカによる福音書 23章33-47節

 聖書は英語でBible(バイブル)です。ギリシャ語のビブリアという語から来ています。本来、ビブリアとは「本」を指す言葉です。その本のなかでも「権威ある本の中の本」と言う意味で定冠詞を付けてThe Bible と呼びます。また、「本」という漢字には、秘密が隠されていて、素晴らしい真理を私たちに教えています。それは「本」という漢字をひっくり返すとその真理が見えてきます。開いた本から十字架が出ているのです。十字架の救いを教える偉大な本・・それが聖書です。

1.主イエスの赦し

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 イエス・キリストの赦しのことばは、私たちにとってあまりにも衝撃的です。今まさに、御自身をむち打ち、十字架に釘付けにし、いのちを奪い去ろうとしている人々のために祈られているのです。生まれつきの人間はこのような愛を持ち合わせてはいません。憎まれれば憎みますし、殴られればやり返したい。迫害されれば恨みとなります。しかし、イエス・キリストが父なる神に赦しを求めておられるのには理由がありました。「彼らは何をしているのか自分でわからないのです」・・確かに彼らは十字架に張り付けにされた死刑囚が誰なのか分かっておらず、彼らの目には世間を騒がす異端者としか映っていませんでした。人々はいつもイエス・キリストのことばにつまずいて非難しました。
@ヨハネ 2:19 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と、ご自身が墓の中から三日目に復活することを預言されたのに、人々は間違って受け取りました。「あの人は神殿を壊して三日で建てると言った。神殿を壊す、とはなんという不届き者!」と。
Aヨハネ 6:56 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」 主イエス・キリストが一人一人の内に住まれるという霊的真理を教えられたのに、人々は字義通りに受け取ってしまい、「イエスは自分の肉を弟子達に食べさせ、血を飲ませようとしている。とんでもない邪教だ」と多くの人がつまずき、イエス・キリストの元から去っていきました。
B約束されたメシアとして病人を癒し、悪霊を追い出されたのに、ユダヤ人指導者たちは、「あいつは悪霊のかしら、ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」と非難しました。
 もし、私たちもこの時代、この場所に生きていたなら、群衆の中の一人として「イエスを十字架につけろ!」と叫んでしまったに違いありません。イエス様のことばの深い意味を理解できなかったでしょう。祭司長や律法学者たちが「十字架につけろ!」と叫び、周りの群衆も「十字架につけろ!」と叫んでいる、その中で、「いいえ、彼は正しい人で、何も罪を犯していません」と叫ぶことは恐ろしくて出来なかったでしょう。弟子達と同じように主イエスを否み、逃げて隠れてしまったに違いありません。
 しかし、イエス・キリストは私たちの愚かさ、弱さ、不信仰、悪意、ののしり・・・すべてをひっくるめて、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈ってくださいました。このイエス・キリストの祈りによって、私たちに罪の赦しと永遠のいのちが与えられているのです。イエス・キリストの愛が、カルバリの丘に立てられた十字架からあふれていたのです。

2.人々の中傷

23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

 その赦しの祈りも人々には伝わらず、イエス・キリストに対する中傷が一斉に響きました。十字架を取り囲んだ民衆、指導者たち、ローマの兵士たち、そしてともに十字架に架けられた強盗から、そしりの言葉が止みません。最も薄情なのは、左に架けられた犯罪人でした。彼は強盗の罪で同じ十字架刑を受けているのに、キリストに対して悪口を言ったのです。彼らの言葉の背後には、サタンの姿が見え隠れしています。「あなたがキリストなら、自分を救え。今すぐ奇跡を起こして十字架から降りてみよ。そうすればあなたを救い主と認めよう!」と言うサタンの誘惑です。もし、キリストが激しい苦しみの中でその誘惑に負け、自分を救うために奇跡を起こしたなら、人々はキリストにひれ伏しキリストを拝んだかもしれません。しかし、それではイエス・キリストがこの世に来られた意味がなくなってしまいます。人々の罪の刑罰を背負い、身代わりとなって十字架で死に、罪の赦しを与える救い主ではなくなってしまうからです。それゆえ、イエス様は彼らの心ない中傷を受けても、ひたすら黙って耐えておられたのです。

3.強盗の救い

 イエス様の右に架けられた強盗は、はじめはキリストに悪口を言ったようです。しかし十字架に共に架かりながら、次第にイエス様のことばと態度によって、このお方が本当にキリストであると確信するようになりました。彼は左の強盗の悪口に対して我慢ならず、彼をたしなめます。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 彼の言葉には、誉められるべき点があります。
@自分の罪を認め、そのさばきを受けていることを受け入れ、悔い改めています。
A十字架で今にも死にそうなイエス様を見ていながら、彼を救い主キリストと信じ受け入れ、彼に願い求めました。
Bその願いは、自分が犯してきた罪の大きさゆえ「救ってください」と言えず、「私を思い出してください」と願う事しかできませんでした。事実、彼は十字架刑に処せられるほど悪い犯罪人だったのでしょう。そしてイエス様を救い主として信じても、彼には償いをする時は残されていませんでした。盗んだ物を返すことも出来ません。犯した罪の赦しを乞うこともできません。まして、人々を助けたり、奉仕したりすることもできません。エルサレム神殿に登って礼拝することもできません。何一つ、人のために、神様のために善い行いをする時間がありませんでした。だから彼はイエス様に向かって「私を救ってください」と言えず、「私を思い出してください」としか言えなかったのです。

 しかし、イエス様のことばに私たちは大きな慰めと平安を得ます。
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
 なんという力強さでしょう!なんという希望でしょう!イエス・キリストのこのことばによって、犯罪人だけでなく世界中のどれだけ多くの人が慰めと希望を与えられたことでしょう。何の善いところのない罪人を、何の善い働きもない犯罪人を、イエス・キリストは救ってくださるのです。そこに必要なのは信仰であり、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言う祈りです。
 十字架の救いは、私たちが善い人間だから与えられるのではありません。善い行いをしているから天国に入れるのではありません。自分が罪びとであることを認め、神様の前にひざまずいて祈り求める人にだけ与えられるものです。それを私たちは信仰と呼びます。ただ神に対する信仰によってのみ、永遠のいのちが与えられるのです。

4.父なる神の御心

23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

@御子イエスに対する御心
 十字架上での主イエスの最期のことばは、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」でした。このことばにイエス・キリストのご生涯の目的が言い表されています。それは父なる神の御心に従う事です。父なる神の御心は、アダムの一つの罪の行いによって全世界の人が罪人となったので、キリストの一つの義の行ないによって全世界の人に罪の赦しを与えることです。イエス・キリストはこの父なる神の御心に従うという一事のため、身を粉にして働かれました。そして実に十字架の死にまで従われたのです。
A世界中の人に対する御心
 父なる神様はキリストを墓の中からよみがえらせました。私達に罪の赦しと永遠のいのちがあること、そして信仰による勝利があることを確信させるためです。今、父なる神様は私達にイエス・キリストの福音を与えられ、福音を信じる人々に永遠のいのちを与えることを約束されています。
Bクリスチャンに対する御心
 父なる神様のクリスチャンに対する御心は、イエス様が残してくださった模範に従う事です。
Tペテロ 2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

 イエス様が十字架の上で示された模範に従いましょう。模範に従う事は決して楽な事ではなく、試練を伴う苦しい事です。しかし、父なる神がイエス様を死から見事によみがえらせ、いっさいのものの上に立つ支配者として勝利を与えられたように、イエス様の模範に従う人たちには、素晴らしい祝福と勝利が約束されているのです。
ヤコブ 1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 「世」という漢字は、全世界とそこに住む人々を表す言葉です。この漢字に隠された秘密は、真ん中から折ると分かります。そこには三本の十字架があります。イエス様と右と左に架けられた犯罪人です。しかし、左の人はイエス様をあざけり続けました。右の人はイエス様を信じて永遠のいのちを受けました。あなたはどちらの側に立つでしょうか?一人一人が決めなければなりません。どうかイエス・キリストを信じて永遠のいのちにあずかる人となってください。