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心に響く聖書の言葉


信じていること



「お米一粒の中には7人の神様がいるから、ごはんは残さずきれいに食べなくちゃいけないよ。」――そう言い聞かされて私達は育ちました。信じる信じないは別として、何の抵抗もなく受け入れていました。ご飯はありがたいもの、神様はありがたいものというつながりからです。

 「米1粒に7人の神様がいる」――それが何百粒、何千粒と入った一杯のご飯。これがもしカレーライスで、「福神漬け」まで添えられていたら、誰が考えても縁起がよいのです。しかしよくよく考えるなら、なんともへんてこな教えです。食べ物の大切さを教えるために、神様を勝手に引っ張り出し、最後には食べてしまう――私たち日本人の神概念とはこのようなものなのです。

 「信心する心が大切であって、何を拝むかは問題ではない」と多くの方々が口にします。「どの宗教もすべて同じ目標を持っていて、それは私たちが幸せになることです。だから信心することが大切です」と。まことしやかな議論です。しかし「信じる心」が大切なのではなく、「何を信じるのか」が大切なのです。人間が作った神を礼拝しても何の価値もありません。人間を造られた神様を礼拝することが大切な事です。

 私は学生時代に哲学の授業を受けたことがありました。小学校や中学校ではなかった授業ですから、興味しんしんで聞いていました。学んでいくうちに、物事を突き詰めて考えていくという哲学は、解決のない言葉の羅列にしか受け取れませんでした。答えを見つけたと思っても必ず反論があり、またその反論があります。その繰り返しで、真理は一向に見えません。

 聖書に登場するコロサイと言う町では二元論的な考え方があったようです。すべてを二つに分けて考えるのです。天と地、悪と善、物質と霊・・・というように。その延長で、次のような考え方がありました。「目に見えるものは私たちを惑わすので悪、目に見えないものは善である。つまり神は善であり、物質は悪である。だから神は物質を創らなかった。神は精神的な存在である。また人間は肉体を持っているので神と直接交わることは出来ないので、御使い(天使)に祈るべきである。」

 このような背景からコロサイの町では御使い礼拝が盛んに行なわれていました。そのため「御使いが目の前に現れた」とか、「御使いから啓示を受けた」と言う人が次々現れました。不思議な体験談はいつの時代でも出てくるものです。

 使徒パウロはこれらの考え方を否定して、次のように言っています。
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」コロサイ人への手紙2章8節

 あなたが信じているものは何でしょうか?
昔からの言い伝えでしょうか?哲学的にひねり出された思想でしょうか?あなたの信じている神は生きて働かれる偉大な神でしょうか?聖書の第1ページ目のことばに目を留めてください。

創世記1:1 初めに、神が天と地を創造した。