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心に響く聖書の言葉


祖先礼拝とキリスト教



詩篇135篇15‐18節
「異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。口があっても語れず、目があっても見えません。耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。」

1.祖先礼拝はなぜ大切にされているのか

 祖先礼拝は仏教にとって重要な教えです。死んだ人を成仏させるために行わなければならない遺族のつとめだと教えています。供養をしないことは死者を地獄へおいやる事だから、人でなしと言われるのです。
 また、先祖は守護霊となって私たちをわざわいから守ってくれると教えます。ですから悪い事が起これば「供養をしなさい、墓を掃除しなさい、仏壇をないがとしろにしてはいけない・・」となかば脅迫的に命じられます。

 仏教も、神道も、自分に降り掛かる災難や苦しみは、自分の問題ではなく周りの問題であるとします。だからその周りの問題を取り除けば問題は解決する、と教えるのです。(墓の問題であったり、供養の仕方、家の方位、印鑑、厄年など)

 私達はそのような慣習と伝統の中に生きてきたのですが、誰もその本当の意味を教えてはくれません。もし、あなたの家の玄関に宗教の祈祷師が来て、迫力満点のパフォーマンスと共に「この家はたたられています。 お祓いをさせてください。」と言ったとしたなら、その祈祷師を追い返せる人がどれくらいいるでしょうか。霊の世界の事は分からないので身震いし、祈祷をお願いするしかありません。たとえ祈祷師を追い返せたとしても、その日のうちに家の者が交通事故にでもあったなら、自分から飛んで行ってその祈祷師に御祓いを乞うでしょう。

2.聖書の教え



 聖書では、死んだ人の霊魂は天国か地獄かのどちらかにいくと断言しています。そして死んだ人を拝むことは意味の無い事だと教えます。また、問題が起こるのは、外側ではなく、あなた自身に問題があるからです。あなたが罪の生活を止めないかぎり問題は増え続けます。印鑑の朱肉のつまりを取り去っても、枕の向きを変えても無駄です。仏壇を拝んでも、交通安全のお守りをぶら下げたとしても、安全運転を怠るなら交通事故に遭いやすいのと同じです。

イエス・キリストは次のように教えられました。

イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。」  マタイによる福音書15章16−20

 聖書は私達に神の真実を教えています。どうか、聖書のことばに触れてみてください。あなたを助け、救ってくださる神様が本当におられるのです。次の聖書のことばは真実です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子(キリスト)を遣わされました。 ここに愛があるのです。」第Tヨハネ4章10節