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心に響く聖書の言葉


十字架とは?

 教会にはよく十字架が掲げられています。それは、多くの人がアクセサリーとして所持しているようなただの飾りではありません。十字架は、神様が人間の罪を赦し、永遠のいのちを与えることの出来る唯一の方法なのです。飾ってある十字架を拝むことはしませんが、十字架は救いのシンボルと言ってよいでしょう。



 かつて十字架とはもっとも残酷な処刑法として行なわれていたものでした。両手、両足を十字に組んだ木に大きな釘で打ち付け、さらしものとし、激痛のなか、いのち尽きるまで張付けにしておくというものです。考えただけで身の毛がよだちます。ユダヤの教えの中では「木に掛けられる者は呪われた者である」とされていました。その十字架がなぜ救いのシンボルなのでしょうか?

 イエス・キリストは当時の宗教指導者たちの反感を買い、ねたまれ、十字架刑で処刑されました。しかし特筆すべきは、それは父なる神の御心によるものだったということです。
(教会では、天の神のことを「父なる神」、イエス・キリストのことを「子なる神」と表します)イエス・キリストが十字架に架けられ死なれることは聖書に預言されていたのです。

 実はこの十字架刑こそ私達が受けなければならない罪の罰でした。神を神としてあがめず、不品行と肉欲の中に生きている私達が受けるべき裁きがこの死の苦しみでした。しかし神は私達をあわれみ、その愛のゆえに、ひとり子であるイエス・キリストを地上に遣わし、全人類の罪の罰を身代りとなって受けさせたのです。

 イエス・キリストの苦しみは父なる神の苦しみでもありました。愛するひとり子を犠牲にする事ほどつらく苦しいことはありません。神はそれほどまでして、私達を永遠の地獄の苦しみから救おうとされたのです。ここに神の愛があるのです。次の聖書のことばをぜひ覚えてください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネによる福音書3章16節


 イエス・キリストは、十字架に架かり壮絶な死を遂げられました。彼の遺体はその日のうちに墓に葬られました。墓の入り口には、だれも遺体を盗むことのないようにとローマ兵が配備されました。なぜなら、イエス・キリストがよみがえられることを預言しておられたからです。

 三日目の日曜日の朝、イエスを慕っていた女性たちがイエスの遺体に油を注ぐために墓へ行きました。(油を注ぐことは当時の習慣でした)墓に着き、遺体の収めてあるほら穴をのぞいた時、そこにあるべき遺体はなく、巻かれてあった布だけがそのままの形で置かれてありました。途方に暮れていた彼女たちの前に突然、御使いが現われ、

「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」

と告げました。墓の周りにいた番兵たちは死人のようになったと書いてあります。あまりの恐怖のため、動くことさえできなかったのでしょう。御使いのことばを聞いた女性たちは急いでこのことをほかの弟子達に知らせに帰りました。
 その日の夕方、弟子たちが家に集まってイエス・キリストがよみがえられたということについて話していたとき、そのただ中にイエス・キリストが現れました。驚き恐れている弟子達にイエスはこう言われました。

「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」ルカ24:38-39

 イエスは、戸惑っている彼らが理解できるように、聖書の預言通りにご自身がよみがえったことを説明されました。そしてその後、40日にわたって多くの人々の前に姿を現され、天にもどられたと聖書は記しています。



 私たちがこの話を信用することができる理由は、よみがえられたイエスを見た弟子たちのほとんどが、殉教の死を遂げてまでイエスの復活の証人として働いたことです。弟子たちは迫害によっていのちを奪われそうになっても、キリストの復活を証言して殉教の死を選びました。

 どの世界に、全く利益にならない嘘の証言のためにいのちを捨てる人があるでしょうか。そんな事は考えられない事です。復活したイエスに会ったからこそ、彼を救い主として信じ、いのちを懸けて証言したのです。

 では、イエス・キリストは何のためによみがえられたのでしょうか?・・その目的は明白です。彼が聖書の示す救い主であることを確証するためです。預言通りにイエスがよみがえることによって、彼が語られたことばは嘘ではなく、イエスこそ救い主だと私たちが理解できるためです。

 では、イエスはどんなことから私たちを救ってくれるのでしょうか?何のための救い主でしょうか?・・彼は私たちを罪の支配と永遠の滅びから救ってくださる救い主です。

 人は罪を持ったままで死を迎えると、その裁きとして永遠の滅びである地獄へ行かなければなりません。なぜなら、神の前に立った時にだれも、自分は正しい人間だと言うことはできないからです。すべての人は罪人です。しかし、聖書はキリストによる救いを教えています。

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」Tペテロ3:18

 イエス・キリストが私たちの受けるべき罪の裁きを、身代わりとなって十字架で背負ってくださり、血を流し、いのちを犠牲にしてくださいました。彼が流された血の代価によって、救いの道が備えられたのです。しかし、すべての人が自動的に滅びから救われて天国へ行けるのではありません。もう一度、先ほどの聖書のことばを見てみましょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

「御子(イエス)を信じる」ことが唯一の条件となっています。聖書は私たちが救われるために『清い生活をしなさい』とか『毎日祈りなさい』『献金をたくさん捧げなさい』などと教えていません。救われるために必要なことは、イエス・キリストを救い主として信じることです。というのも自分の力や努力で天国へ行ける人は誰もいないからです。あなたが受けなければならない罪の裁きをイエス・キリストが背負い、身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、そして救いの確証のために墓の中より三日目によみがえられたことを信じることが神様の救いの条件なのです。

 聖書は次のように教えています。
「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16

 ですから、あなたが今、どんなに大きな罪を抱えて苦しんでいたとしても、イエス・キリストを信じるなら、いっさいの罪は神の前にゆるされ、永遠のいのちと神の祝福にあずかる事ができるのです。悪い習慣を捨ててからとか、清い生活を送れるようになったらクリスチャンになる、というのではなく、信仰によって今、あなたは救われるのです。

 愛する人が、あなたにプレゼントをあげたいというときに、『それは私の物ではないから要りません』とは言わないでしょう。喜んでそれを受け取るはずです。私達のすべきことは、神様が差し出してくださっているこの福音を信じ、感謝して受け取ることなのです。もし、あなたが『私もイエス・キリストを信じて救われたい』という気持ちでしたら、つぎのように心から神様に祈ってください。

 「私は今まで私の創造主である神様を知らず、罪の中を歩んできました。しかし、イエス・キリストが私のために十字架にかかり死んでくださったこと、そしてよみがえられたことを、今日信じます。私の罪をすべて赦してくださり、滅びから救い、永遠のいのちを与えてくださることを感謝します。どうかこれからあなたの恵みの中で成長させてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン」 
※アーメンとは、『本当に、真実に』という意味です。



 イエス・キリストを信じて救われることは、あなたの生涯の中で最もすばらしい瞬間です。イエス・キリストはあなたの心の扉をたたき続けて待っておられます。心の扉を開き、彼を心の中にお迎えください。