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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書1章1−5節 「生ける神の御言葉・キリスト」

 イエス・キリストのご生涯を学ぶことは私たちにとって何より大切であり、またワクワクすることです。なぜなら神様が私たち人間のために、罪の赦しと永遠の命を用意しておられることを知るからです。キリストによって私たちは新しい人生をスタートすることが出来ます。それは神様によって造られた人間にとって、もっとも価値のあることです。

1.ヨハネの福音書について

 著者は12使徒の一人であるヨハネです。(英語ではJohn。ゼベダイの子で、ヤコブの兄弟彼はガリラヤ湖の漁師でしたが、イエス・キリストの召命を受けて弟子となり寝食を共にして働きました。(マタイ418〜)
 「雷の子」と呼ばれていたので、気性の激しい人だったと考えられます。イエス様が復活して昇天された後は、ペテロと共にエルサレム教会の指導者の一人になりました。晩年は迫害により捕らえられパトモス島へ島流しにされましたが、彼はそこで黙示録を執筆しました。ヨハネがこの福音書を書いたときは90歳近くでした。すでに他の3福音書が書き上げられていましたが、ヨハネがあえて福音書を書いた理由は、他の福音書には記されてない出来事をどうしても人々に知ってもらいたかったからでしょう。他の3福音書(共観福音書と呼ばれます)と比較すると、ヨハネによる福音書にしか記されていない出来事や主イエスのことばが多く収められています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、20章31節にはっきりと宣言されてあります。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 書のはじめでは、ほかの福音書と異なりヨハネはイエス様の降誕について何も言及していません。すでにマタイ、マルコ、ルカによってまとめられたもので十分と考えたのでしょう。また、他の三つの福音書が出来事を淡々と書いているのに対し、ヨハネは霊的なメッセージに焦点を当てながら自分の解説を加えて執筆しています。読者の心に響くようにことばを慎重に選び、キリストの福音を解き明かそうとしています。とくに1章18節までは印象的な序文となっています。


2.初めにことばがあった

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 ヨハネがイエス・キリストのことを伝えようとしたときに、まず、頭に浮かんだのが、「ことば」と言うものでした。キリストは「神のことば」として私たちのところに来られたという真理です。神様が私たちにその大切なメッセージを伝えようとしておられ、そのメッセージがイエス・キリストとなって現れた事を示しています。
 新改訳聖書では、ひらがなで「ことば」と書いていますが、別訳(文語、口語、共同訳、永井約)では漢字で「言」一文字で表現しています。翻訳者が考えた末にこの漢字一文字を用いたのでしょう。ギリシャ語で「ロゴス」という語ですが、その本来の意味は、私たちが通常用いている「言葉」ではなく、哲学的用語で存在を示し、万物の原理を示し、「知恵、英知」とも訳せる語です。私たちの語る言葉から、葉っぱのような軽い言葉、嘘偽りを取り除いた重い真理のことば・・それがロゴスなのです。

 「初めに」というのは何の初めでしょうか?キリストのご生涯の初めではないことは明らかです。ヨハネは万物の初め、すべての成り立ちの初めを思い、創世記の1章1節の御言葉と重ねながら書き出しています。歴史の初めからキリストは父なる神と共におられたことをヨハネは示しています。また、天地万物の創造が「神のことば」によって成ったことを取り上げ、キリストはその「神のことば」であると教えています。
創世記1:1-3 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

3.ことばは神であった

 1章1節では三位一体の神が啓示されています。エホバの証人はイエス・キリストの神性を認めないので、この箇所を『ことばは神のような方であった』と教えます。しかし聖書ははっきりと「神であった」と教えています。万物の創り主は神(エホバ)である事をエホバの証人も認めます。しかし3節を読むなら、ことばであるキリストによって万物が造られたのですから、キリストの神性は明らかです。コロサイ人への手紙の次の箇所も同じ事を教えています。
コロサイ 1:16 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」

 三位一体の教理は、時間空間に制限されている私たちには理解しにくいものです。しかし聖書が教えていることですから、人間の自分勝手な解釈をするのではなく、そのまま受け取るべきです。(理解のために次のページを参照してください。三位一体について
 三位一体の一番良い例は、人間です。人間は神の御姿に似せて造られているので、人間を見ると三位一体の神という教義が理解しやすいでしょう。神様が父なる神、子なるキリスト、聖霊から成るように、人間もまた三つのものから成っています。それは身体と霊と魂です。人には身体しか見えませんが、身体だけでは成り立ちません。魂だけでも成り立ちません。三つの部分があってこそ人間として生きるのです。同じように、神は父なる神と、御子キリスト、そして聖霊があってこそ「神」なのです。キリストはロゴスとして人間の肉体を持ち、この地上に来られました。(14節、18節参照) 創造者である神がこの地上に来てくださるとはとても不思議な事です。しかし、あえて肉体を持たれて地上に来られたのには神様の永遠のご計画があったからです。


4
.人の光であった


1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 ヨハネの二つ目の主張は、「キリストは光としてこの世に来られた」という真理です。キリストの受肉の理由は、「私たちに光を与えるため、光で照らすため」だと教えています。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 光の反対は、闇です。闇とは、悪魔の力、悪、罪を象徴します。神様から見た私たちの世界はまさに闇の世界です。しかし世界の始まりの時は闇ではありませんでした。神様が創られたこの世界は完全で素晴らしいものでした。その中で人間は罪を犯し、罪人となり、堕落してしまいました。人は神様から離れてしまい、祝福ではなく、のろいの中に生きるものとなったのです。この世は悪魔の支配する世界に変わったことを聖書は教えています。その闇の世界にイエス・キリストは光として来られました。悪魔のわざを打ち滅ぼし、闇を取り去る方として来られたのです。ヨハネはこのキリストを私たちに伝えようとしているのです。