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心に響く聖書の言葉


「至高の人・バプテスマのヨハネ」 ヨハネによる福音書1章6-34節

 前回の学びでは、著者ヨハネが何を考えながらこの福音書を書いたのかをお話ししました。ヨハネはイエス・キリストのことを示そうとしたときに、「神のことば、ロゴス」として来られた事をまず伝えたかったのです。ヨハネは「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」と言うことにより、三位一体の教えを示しつつ、父なる神のメッセージとして来られたイエス・キリストを示し、このキリストが暗闇に住む私たちを照らすまことの光であると教えています。そして今回の聖書箇所で、その光について説明していくときに、忘れてはならないバプテスマのヨハネのことを取り上げています。

1.バプテスマのヨハネの紹介 6-8

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
 バプテスマのヨハネのことを、「神から遣わされた人」として紹介しています。「神から遣わされた」と言う事により、バプテスマのヨハネがただの人ではなく、特別な任務を与えられた神の真理の証人であることを示そうとしています。彼は光についてあかしするために来たと説明しながら、彼は光ではなかったと落としています。それは私たちが彼を英雄のように考えたり、神格化してしまわないためでしょう。というのは、マタイ1111節で、イエス様が『女から生まれたものの中でバプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした』教えられたからです。つまり人間の中で最も偉大な人がバプテスマのヨハネだと言うのです。当然、ヨハネは人から崇拝される対象にされてしまう危険性があります。しかし、私たちが崇拝すべきは、人ではなく、栄光の中に住んでおられる全能の神です。バプテスマのヨハネの働きは、光について証しすることでした。その光とは救い主、イエス・キリストの光です。
マルコ11-8参照
 マルコは、預言の成就としてバプテスマのヨハネが現れたと書いています。またヨハネが授けた水のバプテスマは、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマだと説明しています。その意味は「救い主がもうすぐ来られるので、あなた方は準備が出来ていますか?不信仰の生活を改め、罪を悔い改めて救い主をお迎えする備えをしなさい。」というものです。その目的でバプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けたのです。(注;現在、キリスト教会で行なわれているバプテスマは意味が異なります。)

 当時のユダヤ人の信仰はと言えば、不従順の時代でした。長い御言葉の飢饉の時代のあとで、多くの人たちは神に対する熱心を失っていました。さらにローマ帝国の支配によって苦しい生活を強いられ、多くの人の心は荒んでいました。苦しい生活ゆえに、救い主を待ち望んではいましたが、信仰生活は聖書の言葉から離れ、形式だけの宗教となっていました。そのような信仰は何の役にも立ちません。ヨハネはその人々のところへ神のことばを持って出て行きました。
 バプテスマのヨハネは、ただ一所で説教したのではなく、「ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って悔い改めのバプテスマを説いた」とルカは記しています。ぼろをまとい、食べたいものを我慢し、御言葉を伝えることに専念しました。そのときにユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民がバプテスマを受けにヨハネの元へ出てきました。まさに霊的なリバイバルでした。

2.ヨハネへの質問 19-27

 バプテスマのヨハネのことを良く思わない人たちもいました。それは当時のユダヤ人の宗教指導者たちでした。彼らはヨハネが自分たちの許可を得ずに、勝手にバプテスマを授けたり、聖書を教えていることに腹を立てていたのでしょう。そこで、ヨハネのところへ使いを出して調べることにしました。それが、ヨハネ119節からの記事です。
1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。
1:20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。
1:21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
1:22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」

 読み方によってニュアンスは変わってくると思いますが、おそらく厳しい尋問のようなことばだったでしょう。「おまえは一体何なのか?・・・なぜ、キリストでもエリヤでもなく、あの預言者でもないのに、バプテスマを授けているのか?何の権威があってこんなことをしているのか?」
 それに対するヨハネの答えに驚かされます。
「私は・・・荒野で叫んでいる者の声です。」
 自分には何の権威も無いが、ただ、主の御言葉を伝えているのであって、「荒野の声」なのだと答えました。この深い言葉に教えられます。私たちの住む社会は、権威や資格を重要視します。学校では校長、教授、博士などの権威があります。政治の世界では総理大臣、大臣、長官、会社では社長、部長、課長、CEOなどの権威があります。権威が無くては何を語っても相手にされません。またそのような権威や資格が無くては仕事さえさせてはもらえません。皆さんは名刺をお持ちでしょうか?名刺に立派な肩書きが多ければ多いほど、信頼され尊敬されます。そういう権威や肩書きを得るために懸命に努力し、学び、働くことは大切なことだと思います。しかし、ヨハネの答えにはなんの権威も肩書きも無いのです。『叫んでいる者の声』だと。この言葉に彼の信仰があらわされています。
 神の御前に私たちはみな平等です。神の前に立つなら、一人の創られた人間であり、罪人で、何も誉められるところのない者です。誇ることの出来ないみじめな人間です。ヨハネは神に仕える者としてへりくだり、自分には何の権威も無いが、ただ、神様の真理を叫んでいるのだ、と確信を持って語っているのです。

 ですから、神に仕えていこうとする人は、肩書きを気にする必要はありません。超一流大学を出ていても学歴が無くても、社長であっても無職でも、たとえしゃべるのが苦手であってもまったく構いません。神様に仕えたいという心を神様は喜ばれ、その人を用いてくださいます。そして自分の肩書を気にしなければ、ほかの人を肩書きで差別することもなくなります。もし教会にスーツ姿の立派な人が来ても、ぼろを着た浮浪者の人が来ても、私たちがすることは、神の福音を心から語り、キリストの恵みを証することなのです。来る人たちの肩書きを見て「あなたはこちらの上席に、あなたはこちらの後ろの席に!」と人を差別するなら、それは神様の御心ではなく、わざわいでしかありません。

 話を元に戻しますが、宗教指導者たちから遣わされた人たちは、ヨハネの答えを理解できませんでした。「何の権威も無いのなら、どうしてバプテスマを授けているのか?」とさらに尋問します。それに対するヨハネの答えは26-27です。
1:26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」

 このヨハネの答えの意味は、「私はただ水でバプテスマを授けているに過ぎない。後から来られる方に比べたら、私のしていることは取るに足らないことだ。それほど後から来られるかたは権威があり、偉大な方なのだ。」と言っているのです。「そのお方」とは、救い主として来られるイエス・キリストです。ヨハネは知っていたのです・・このキリストが授けるバプテスマは水などではなく、聖霊のバプテスマだということを3234節参照

 聖霊のバプテスマについて、ヨハネによる福音書の中には多くの記事が出てきますので、そのときに詳しくお話ししたいと思いますが、ひとつだけここで説明するなら、「水のバプテスマと聖霊のバプテスマの違い」は、一時的な赦しと永遠の赦しの違いです。ヨハネが授けた悔い改めの水のバプテスマは一時的な罪の赦しを与えましたが、永遠の赦しではありません。しかし、イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマは永遠の赦しを与えるのです。永遠と一時的、比べたらその差は歴然です。バプテスマのヨハネはこのことを知っていて、「私はただ水でバプテスマを授けているにすぎません。しかし後から来られる方は偉大なお方です。」とキリストの栄光を指し示しているのです。

3.ヨハネがすぐれている理由

1:28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

 イエス・キリストがバプテスマのヨハネのことを「女から生まれたものの中で最もすぐれた人」と語られた理由は、三つあるでしょう。
@生涯をかけて宣教を行い、すぐれた働きをした
Aへりくだった心の持ち主
B神の深い真理を知り、信仰によって歩んだ
 ヨハネに習うべきことはとてもたくさんありますが、彼に過剰に注目することはよくないことです。彼は言いました。「後に来られる方は私よりはるかに偉大な方です。この方を信じなさい。」 ヨハネは生涯をかけて、イエス・キリストを紹介し、私たちがイエス・キリストに注目することを望んでいたのです。ですから、イエス・キリストが自分のほうに来られるのが見えたときに、彼はいても立ってもいられず叫びます。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』と。このお方に注目してください、という彼のメッセージなのです。なぜならこのイエス・キリストこそ、私たちの罪を取り除くことが出来る唯一のおかたであり、永遠のいのちを与えてくださる救い主だからです。