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心に響く聖書の言葉


「イエスさまの招きに従う」ヨハネによる福音書1章35-44節

1.アンデレたちが導かれる

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

 本日の聖書箇所に登場する二人の弟子の内、一人はアンデレであり、「もう一人の弟子」は福音書著者のヨハネ自身と思われます。彼は福音書中、自分の名前を挙げずに話を進めています。彼らはもともとバプテスマのヨハネの弟子でした。バプテスマのヨハネはアンデレたちに、「イエスが神の小羊、メシア」であることを示し、彼に従って行くことを勧めます。名声を求めず、真理を求めるバプテスマのヨハネの器の大きさを見ます。

 あとに付いて来たアンデレたちにイエス様は質問されました。「何を求めているのですか?」・・・この質問は、ヨハネによる福音書ではイエス様の最初のことばとして記されています。「ことば」にこだわって福音書を書いているヨハネが、イエス様の「最初のことば」にこだわりを持たずに書いたとは思えません。この言葉はアンデレたちだけでなく、私たちの生き方を問う言葉なのです。
 「何を求めて生きているのか?」・・クリスチャンに対しても同じ質問です。「何を求めて教会へ来ているのか?」、「何を求めてイエス・キリストを信じているのか?」・・このイエス様の質問にスッと答えることができる人は、自分の生き方に自信がある人でしょう。はっきりとした目標を持って歩んでおられるはずです。しかし、「何がなんだか分からないが前に進んでいる。死にたくないから生きている。教会に来ているのも、みんなが楽しそうに教会に集っているし、いい話が聞けるので私も教会に来ている・・・」という方々もおられるでしょう。

 アンデレたちも、待ちに待ったメシアに付いていこうとしているのですが、『何を求めているのか』と問われた時、自分たちはこのメシアに何を求めようとしているのか答えが出てきませんでした。ですから彼らの返事は「今どこにお泊りですか?」と全く答えになっていないのです。

 それに対してイエス様は泊まっている場所を言うのではなく、「来なさい。そうすれば分かります。」でした。(英語では、Come and see!)イエス様のことばには、「わたしと一緒に来なさい。わたしと一緒に歩みなさい。そうすれば泊まっている場所が分かります。そして、何を求めて生きたらよいのかも分かります』 ・・そのような深い意味を汲み取ることが出来ます。私たち人間は、創造者によって形造られたものです。ですから創造者を離れてしまった私たちに、生きる目的が分かるはずがありません。創造者を離れては私たちの生きる価値は無いに等しいのです。けれど、そのような自分勝手な歩みを悔い改めて、創造者を知り、神様に近づこうとするときに、神様のほうから近づいてくださり、真理を示し救いへと導かれます。その救いの根拠は、『来なさい。そうすれば分かります』と語られたイエス・キリスト御自身の十字架の贖いによるのです。

2.アンデレの伝道

 その日一日、アンデレたちはイエス・キリストと共に過ごしました。どのような会話があったのでしょうか?彼らは嬉しさのあまり興奮状態であったでしょう。次の日になって、アンデレはこのことをすぐに兄弟のシモン(ペテロ)に知らせます。そしてシモンをイエス様の元に連れてきました。福音書の中での最初の家族伝道といえます。
 アンデレに目を留めるなら、彼はこの箇所以外で登場するときも、ほかの人をイエス様に紹介しています。6章8節では、5000人の給食の記事がありますが、そのときにつのパンと二匹の魚をささげようとした少年をアンデレはイエスさまに紹介します。また、12章22節では、イエス様にお会いしたいというギリシア人をピリポとアンデレは嫌な顔をせず、イエス様に取り次いでいます。私たちはこのアンデレの働きを見習いたいものです。人々をイエス様の元に連れてくるという尊い働きです。それはまさに福音伝道です。アンデレは自分の兄弟をイエス様の元へ連れてきました。社会的には何の地位もない一人の少年を紹介しました。ユダヤ社会では嫌われていたギリシャ人を紹介しました。人を分け隔てせずにアンデレは人をキリストに導いたのです。あなたにもこの伝道が出来るはずです。
 アンデレは福音書の中では脇役で、立派な説教をしたこともありませんし、指導的な役割を持つこともありませんでした。いつも兄弟のシモン(ペテロ)ばかりが目立ってしまい、その陰にかくれてしまっています。シモンにはイエス様は『あなたをケパと呼ぶことにしよう』と言われ、別名まで与えられました。そんなときの普通の人の対応は、ひがみであったり、嫉妬したり、それを通り越すなら、「もうやめた!」と投げ出してしまいます。しかしアンデレは使徒として最後まで働き通しました。ペテロの働きを応援し、最後まで彼を助けたことでしょう。なぜならアンデレの心は、自分が導こうが誰が導こうが一人でも多くの人がキリストを知ることが彼の願いだったからです。福音宣教は人の獲得競争ではなく、神様から与えられた尊い使命です。私たちは純粋に福音宣教を思い、ほかの人が神様に用いられていることを喜ぶべきです。
 でもこれが難しいことです。私はこの教会で主に仕えていますので、常に教会成長のため祈っています。人々が救われ、兄弟姉妹が霊的に燃やされ、初代教会のように教会員が増やされることを願います。しかし実際はなかなかそうはいきません。そのような中で、開拓を始めたばかりの教会が数年で大教会になった、数千万の会堂が建てられた、などという報告を聞くとき、実際、うらやましい気持ちでいっぱいです。そのようなとき、このアンデレの伝道に目を向けると励まされます。また、バプテスマのヨハネも自分の弟子たちが次々にイエス・キリストの弟子となっていった時に、そのことを喜んでいたことを思うと、私も目を天に向け、神様の栄光があらわされることを喜ぶべきだと思わされます。

3.ピリポが導かれる

1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

 イエス様は次にピリポを導かれました。アンデレと同様、ピリポもまたイエス様が本当にメシアなのか半信半疑であったでしょう。しかし、イエス様のことばは単刀直入です。「わたしに従って来なさい」 
 ピリポはすぐにイエス様に従いました。そしてイエス様が行なわれる大いなる奇跡の光景を見、神のことばを聞くことになります。イエス・キリストと共に歩んでいくなら分からなかったことが理解できるようになります。遠くから眺め、批評するだけでは何も得ることがないのです。
 イエス・キリストがどういうお方かを知るためには、彼に付いていくことが一番の方法です。そしてイエス様に心から従う準備が出来たなら、私たちはイエス様から宣教の使命を与えられます。それは人々をイエス様の所へ連れて来ることです。将来、天国においてイエス様にお会いするときに、私たちは一人一人宣教報告をしなければなりません。喜んで宣教報告したいものです。そのとき、イエス様から朽ちぬ冠をいただける事はなんと言う光栄でしょう。