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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書2章1-11節「カナの婚礼」


1.婚礼について

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
 1章においてイエス・キリストはナタナエルに対して「さらに大きなことを見るようになる」と告げられました。そのことばのとおり、ナタナエルの故郷、ガリラヤのカナという町で最初のしるしをイエス・キリストは行なわれました。カナという町は、ガリラヤのナザレから15キロも離れていない場所にあり、母マリヤの親戚や友人たちが多くいたのでしょう。この場所で開かれた婚礼にマリヤも手助けとして集い、イエス様と弟子たちも招かれました。
 当時における婚礼の披露宴は一週間も続くものでした。さらに、旧約聖書の規定によるなら、結婚後の一年間は、新郎は労働を休み、花嫁と新婚生活を送ることが定められているのですから、なんともうらやましい規定です。結婚は神様の祝福です。結婚とは私たちの生涯の中でかけがえのない出来事です。二人がひとつとなるという奇跡です。結婚を簡単に考えてはいけません。全く他人だった二人が、共に生活するのですから、問題は必ず起こってきます。考え方が違い、性格が違い、趣味や嗜好も違う二人ですから、一緒に生活していくときに衝突しないわけがありません。味噌汁の味付けひとつで喧嘩になるのです。相手を理解し、受け入れなければ一緒に生活は出来ません。互いの違いを理解し、受け入れ、その上で共に同じ希望や目標を持って歩む事が必要です。それを可能にするのは、愛です。その愛を私たちはイエス様から学ぶことが出来ます。

2.ぶどう酒がありません

2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
 宴会が続き、用意していたぶどう酒が底を尽きてしまいました。宴会の世話役の大失態です。マリヤは気を使い、どうしたらよいかと考えた挙句、息子のイエスに期待しつつ告げます。「ぶどう酒がありません」と。母マリヤへのイエス様の答えは、厳しいニュアンスのことばです。しかしギリシャ語原語をよく見ていくと、日本語のイメージよりもっと丁寧な言い方になっています。
「あなたは私と何の関係があるのでしょう」・・「あなたと私にとってはなんでもないことです。任せなさい」とも受け取れます。
「女の方」という呼びかけも、丁寧な呼びかけですが、ただ、母親に向かって使う言葉ではありません。これには理由があります。公生涯に入られたイエス・キリストは「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と語られています。公生涯に入られたキリストは「一人の女性の息子」という立場を超えて、「すべての人の罪の贖い主」としての生涯に入られたことが分かります。
「わたしの時はまだ来ていません。」・・イエス・キリストがこの世に来られた目的は、十字架に架かり、私たちの罪の身代わりとなって裁かれ、罪の赦しを与えるためでした。しかし十字架に架かればそれで済むというのではありません。十字架に架かる前に、イエス様には語るべきことば、成し遂げなければならない御わざがあったのです。公生涯の初期に捕えられ処刑されるのは、父なる神の御心ではありませんでした。ですから、あえて多くの婚礼出席者には分からないように、イエス様は奇跡を行われました。

3.奇跡に隠された真理

 この奇跡の中に、隠されている真理があります。イエス・キリストは人の必要を満たしてくださる、という真理です。人の必要を知ってそれを備えてくださる方がイエス・キリストです。しかし、それ以上に汲み取れる真理があります。それは、ここで用いられた水がめは、ユダヤ人がきよめのしきたりに用いる水がめであったことに注目すべきです。ユダヤ人は手をこの水で清めたり、食器を清めたりするのに用いました。その水を飲んだりはしません。この水がめにぶどう酒を入れたりするのは罰当たり者です。もし、この場に厳格な律法主義者がいたなら、奇跡の事実より、「なぜこんなことをしたのか!」と怒り出したに違いありません。イエス・キリストが行われた奇跡は、ユダヤ人のきよめのしきたりを打ち破るものでした。つまり、イエス・キリストは、旧約の律法やしきたりの中にがんじがらめになっていた人々を解放し、その御わざにより私たちに神様の祝福を注がれるお方なのです。

4.奇跡の目的

 また、第一のしるしをガリラヤのこの場所で行なわれた理由を考えると、それは母マリヤのためであったと考えられます。自分を生み育ててくださった母に対する特別な計らいであったのでしょう。マリヤにとってイエスは特別な息子でした。彼を身ごもる前に天使からのお告げがありました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」ルカ 1:35
 そのお告げ通り、生まれてきたイエスに次々と不思議な出来事が起こりました。「いったい、この子はどうなってしまうのでしょう、本当に救い主なのでしょうか?」と不安を抱きながらイエスを育てたのです。神様から特別な使命を与えられた息子として、見守り続けました。その母マリヤの一つのお願いが「ぶどう酒がありません」でした。イエス・キリストは母マリヤのために奇跡を行なわれました。母親の疑心暗鬼はこのときに取り除かれたでしょう。マリヤもまた救われなければならない一人の女性なのです。カナでの奇跡は、自分を生み育ててくださった母に対する特別な計らいでした。

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 奇跡という言葉ではなく、「しるし」と書いている理由は、目的のある奇跡だからです。その目的とは、イエス・キリストが天から来られた約束の救い主であることを証明することです。キリストは救い主としての権威と栄光をしるしによってあらわされたのです。弟子たちはしるしを見てイエス・キリストを信じました。著者ヨハネがこの福音書を書いた目的は、私たちが信仰を持ち、永遠のいのちを持つためです。著者ヨハネは、このあと「信じる」という言葉を幾度となく繰り返し用いています。出来事の締めくくりは常に信仰に結びつけています。信じるということは難しいことです。結婚についてお話ししましたが、相手を信じるという事は結婚においても大切なことです。何を信じていくかで私たちの人生は全く違うものになります。価値のないもの、壊れてしまうもの、嘘偽りを信じているなら、そこには失望しかありません。けれども価値のあるもの、永遠に残るもの、真実なものを信じているなら、がっかりさせられることはありません。あなたにいのちを与えられた神が、「イエス・キリストを信じなさい」と命じておられます。イエス・キリストは信じる価値のあるお方です。イエス・キリストはあなたの願いを聞かれ、必要を備えられるお方です。そして真理の神です。イエス・キリストを信じて、罪の赦しと神様の祝福を受けてください。