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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書2章12-25節「宮きよめ」

 ヨハネの福音書によると、イエス・キリストの最初のしるしは、ガリラヤのカナという町で行なわれました。それは水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。イエス・キリストが行われた奇跡は「しるし」と呼ばれます。奇跡は単に超自然的な現象を指して言うのですが、「しるし」とは、その奇跡に何かの目的、示そうとしている真理がある時に「しるし」と呼ばれます。イエス様の最初の「しるし」は、ご自分を生み育ててくれた母マリアに対する取り計らいでした。唯一の肉親であるマリヤの前で「しるし」を行ない、ご自身が救い主として福音宣教を開始されたことを証しされたのです。
 そしてもう一つの大きな目的は、モーセの律法の下で、しきたりや慣習というものにがんじがらめにされ、もだえ苦しんでいる人々を救い出し、律法を終わらせるためでした。宗教的きよめに用いた石の水がめ、その中の水をぶどう酒に変えるということは、律法主義というかたい壁を打ち破り、ぶどう酒が象徴するご自身の十字架の血によって、罪の赦しを与えることを示されたのです。
 今日の聖書箇所は、間違って受け継がれてきた律法主義を正そうとされるイエス・キリストの熱心を見る箇所です。「宮きよめ」と呼ばれる聖書箇所です。

1.問題となる記事

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 この聖書箇所が取り上げられるときに、必ず問題となることがあります。それは、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書では、この出来事をキリストが十字架に架けられる受難週の初めの出来事として記しているのに対し、ヨハネによる福音書では、その二年前の過越の祭のときとなっています。このため聖書神学者の間でも意見が分かれています。また、反対者たちは「ヨハネがもうろくして、出来事のあったときを間違えて記してしまったのだ!」「聖書には間違いがある!」と、聖書を批判する箇所となっています。ある神学者たちは、イエス・キリストは、二度、宮きよめをされたと考えます。またある人たちは、宮きよめは一度だけで、ヨハネは出来事をその起こった順番に記したのではなく、神学的に必要と思われる順番で出来事をまとめたのだとする人もあります。私は後の解釈がよいと思います。
このページの参考2の箇所を参照してください)

 では、この記事の内容に目を向けましょう。イエス様はエルサレム神殿に入られるなり、細縄でむちを作り、犠牲用に売られていた羊や牛を追い出し、両替人たちの稼いだお金を撒き散らし、台や腰掛をバタバタと倒されたのです。なぜ、このような激しい行動をイエス様が取られたのでしょうか?福音書全体を通してのイエス・キリストのイメージは、常に柔和で優しく、真理を教えられるお方です。しかしこの記事は、はたから見れば、怒り狂い、暴力行為を行なったとしか映りません。

2.金儲けに走る宗教

 主イエスの行動を理解するためには、まず、なぜ神殿の中に両替人や羊や牛を売る人たちがいたのか、そのことから話さなければならないでしょう。当時のユダヤ人はユダヤ地方だけでなく、ローマ帝国内のあちらこちらに離散して住んでいました。遠くに住むユダヤ人たちは過越などの祭りの時にエルサレムに上ってきて礼拝し、成人男性に課せられた宮の納入金半シェケルをユダヤの貨幣でささげなければなりませんでした。そのため、神殿の中に両替人がいて、ローマ貨幣をユダヤ貨幣に両替し、その手数料を1割から2割、受け取って儲けとしていたのです。
 また罪の赦しのためにささげる動物は、律法の規定により傷の無いものでなければならず、その検査は非常に細かく面倒なものでした。遠くからやって来る巡礼者たちにとって、動物を連れてくるだけでも面倒なことです。そのため巡礼者たちは、宮の売店で検査済みの動物を買ってささげたのです。その収益は大祭司が受け取り、莫大な儲けとなっていたそうです。
 イエス・キリストの怒りはそのような悪質な搾取に対する怒りでした。金銭をささげることや、いけにえをささげることは神様の御心です。しかし神を礼拝しようとする人に対し規定を定めてお金を払わせ、リベートを取り、私腹の肥やしとすることは許されないことです。さらに、その売買を神の宮である神殿の中で行っていたことに神の御子は怒りを燃やされたのです。神の住まいとされた神殿を、金儲けの場にしてしまうことは、神に対する冒涜であり、神の怒りがその上にあるのです。
 ※日本では、人が亡くなると、仏式で葬られることが圧倒的に多いのですが、その時に戒名が与えられる事を、皆さんご存知だと思います。戒名は位牌に書かれます。戒名とはもともと、生きている間に出家し、佛の弟子となって初めて与えられる名のことだそうです。しかし出家をして佛に仕える人はわずかですので、ほとんどの場合、その人が亡くなった時に戒名が与えられます。しかし問題はその戒名にランクがあり、その金額の相場があることです。多く払えば高位の戒名が与えられ、金額が少ないと下位の戒名となってしまうのです。院殿号(いんでんごう)が最高位の戒名とされ、相場で500万円とのこと。宗教の名の下に、金儲けをしている一例でしょう。

 教会もお金のことに気をつけなければなりません。礼拝堂を金儲けの場所としてはいけません。献金を強制したり、献金の規定を定めたりするなら神様の御心から外れてしまいます。確かに収入が無ければ、教会は成り立っていきません。「きれいごとだけで教会はやっていけないでしょう!」と未信者の方に言われます。確かに収入が無ければ教会堂すら維持するのが不可能です。牧師は無報酬で奉仕、野の蜜を吸って生活しなさい、と献金が無ければそうなってしまいます。教会の維持と経費はクリスチャンの方々の献金によって賄われています。では、教会の献金が少なくて困るときにはどうしたらよいでしょう?・・その時に牧師が出来ることは、二つあるでしょう。一つは、何とか献金を増やそうと献金のメッセージを増やし、十分の一献金を守ることを義務として強要し、特別集会や結婚式や葬式があるたびに、いくらしかの金額を取るのです。また、歴史のなかではカトリック教会が罪の赦しのため免罪符を販売しました。私たちの教会では、教会の裏庭で取れたブドウを、祝福の詰まった「恵みブドウ」と命名し、またみかんを「めぐみかん」として販売します。そして言うのです。「この恵みぶどう、めぐみかんを食べると、神様の祝福があなたの家庭に訪れます!」と。そうすれば大きな収入源になります。また祝福のための1祈祷につき1万円を頂きます。そうすれば純粋で従順なクリスチャンの方々は信仰の義務と信じて捧げてくださるでしょう。・・・・・しかしそれは全く神様の御心ではありません。正しくない方法です。もう一つの私たちが取れる正しい方法は何でしょうか。
 ・・それは祈ることです。神様に嘘偽りの無い真実な心をもって必要を伝え、すべての必要を満たしてくださる全能の神に期待することです。そして魚をとることより人間をとることに目を向ける事です。お金が足りないことを嘆くのではなく、神様の御心を知ることが出来ない霊的貧しさを嘆くのです。律法を語って厳しくするより、福音を伝えて愛することです。その時に私たちは驚くばかりの神様の恵みを見ることが出来るのです。水をぶどう酒に変えられ、盲人の目を開けられたおかた、何も無いところから有を生み出されるお方が、すべての必要を備えてくださると信じるのです。たしかに現実はクリスチャンの方が熱心に献金を捧げてくださるから教会は活動が出来ます。しかしその捧げてくださる人の背後に、神様が働いておられ、ささげる物を備え、惜しまずに喜んで捧げる思いを与えてくださるからです。それもまた神様の奇跡であり、恵みなのです。
※教会の会計が厳しく、牧師に与えられる給与が十分でない場合、牧師が別の仕事(アルバイト)をすることは間違ったことではありません。使徒パウロでさえ、自分の生活費のために天幕作りのアルバイトをして生計を立て、伝道していました。使徒18:3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。 教会の成長に応じて、牧師が祈りと御言葉の奉仕に専念できるようになることが相応しいのです。(使徒6章1−5節参照)

3.暴力的行動の理由


 本文に戻りますが、イエス・キリストが両替人たちを追い出すという暴挙に出られたことを不思議に思う人もいるでしょう。しかし、そこには二つの理由があります。いえ、二つの当然と言える権利があるのです。
 一つは、16節で「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と語られたように、エルサレム神殿はイエス・キリストにとって父の家であり、当然その御子であるイエス様の家でもあるのです。父なる神様はエルサレムに建てられたこの神殿を選ばれ、ここに住まれると約束されました。
詩篇 132:13 【主】はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。
132:14 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。
 そしてダビデ王の子、ソロモン王がこのエルサレムに大神殿を建設した時に、神様はソロモンにつぎのように語られました。
U歴代7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
7:16 今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

 エルサレム神殿は父なる神様の住まいとして旧約聖書ではっきり示されています。当然それは御子イエス・キリストの家でもあります。自分の家なら、そこで勝手に商売をしている人たちを追い出すことはもっともなことです。それも正しい商売ではなく、神のものを盗んでいる商売人たちですから、手荒く追い出すことは当たり前です。自分の家から強盗を追い出すことは当然の権利です。

 そして、もう一つの理由は、イエス・キリストがユダヤ人の王として来られたおかたであるからです。
ゼカリヤ 9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
 イエス・キリストはダビデの子孫としてその王座を永遠に立てられるお方として来られました。ユダヤ人の王であるなら、勝手な商売人を追い出すことは王としての当然の権利です。机や腰掛を倒したのも、それは王という権威を持っておられるからです。つまりイエス・キリストとは誰なのかを知っているなら、この事件も、すべてのイエス様のことばにも納得がいくのです。イエス・キリストを単なる宗教指導者として考えるなら、彼の取った行動は野蛮であり、反逆と非難されます。しかし聖書が示すとおりに、彼が天から来られた救い主、そして神のひとり子として信じ受け入れるなら、不可解だったすべての行動やことばが理解されるようになるのです。天から来られたからこそ、天の御国のことを話す事がおできになります。神の御子だからこそ人の罪のさばきについて教えることが出来るのです。

 しかし、エルサレムの指導者たちは「彼はナザレのイエスではないか!」といって聞く耳を持ちませんでした。慣習やしきたりを重んじるあまり、イエス・キリストの福音のことばを拒否しました。天の御国の教えを聞いても、生活のための金儲けに懸命で、真理を求めようとしませんでした。彼らは最後にはこの神の御子を十字架につけて殺してしまったのです。そのため彼らは神の祝福を失い、イスラエルという国は戦争と迫害の歴史を今も続けているのです。
 ですから、今みなさんが神様の福音のことばを聞くとき、心を開いて聞いていただきたいのです。イエス・キリストを天から来られた救い主として信じて、聖書のことばを受け入れてください。

4.この事件の目的

 この出来事は、きよめの水をぶどう酒に変えられたしるしと同様、律法の誤った解釈から生じたしきたりや慣習を打ち破り、これを壊そうとする戦いの始まりでした。イエス・キリストは旧約聖書を廃棄するために来られたのではなく、旧約の律法を完成させ、新しい神の契約をもたらされるために来られたのです。その新しい契約とは御自身の血による契約であり、十字架による贖いによって人々の罪が赦されるという恵みの契約です。「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と語られたことばは、ご自身が十字架に架けられて死に、三日目によみがえるという福音をあらかじめ示されていました。イエス様のことばは常に十字架の贖いが前提として語られているのです。
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 先週、告別式で司式をし、御言葉を取り次ぎましたが、19歳という若さで突然なくなられたかたのことを考えるたびに、またそのご遺族の悲しみを考えると、胸が締め付けられます。そのなかで、「人はパンだけで生きるのではない」というイエス様のことばを繰り返し覚えました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです。神様のことばは私たちに慰めと励ましを与えます。そして生きる希望を与えます。どうかあなたも神様のことばを信頼して歩んでください。