本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書21章1-17節「エルサレム入城」



 エルサレムを目指して旅を続けられたイエス様と弟子達は、いよいよエルサレムへ到着しました。いつの時代からか、「エルサレム入城」という言葉が用いられるようになりました。エルサレムが壁で囲まれた要塞都市であり、神が住まれる城というイメージから用いられた言葉でしょう。

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。


 エリコの町からエルサレムまでは標高差が約1100メートルあるため、かなり急な登り坂が続きます。文字通り、都のぼりと言えます。エルサレム入城は、旧約聖書の預言の成就でした。マタイはゼカリヤ書の預言を挙げて説明し、イエス・キリストこそイスラエルの王として来られた救い主だと証明しています。

1.平和の王として

 ロバの子に乗って入城される主イエスの姿をマタイは記しました。5節はゼカリヤ書の預言です。
ゼカリヤ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。


 「子ロバの背に乗って来られる王」というのは滑稽ですが、そのイメージは平和と柔和さを象徴しています。主イエスはゼカリヤの預言を知っていて、「ロバの子を連れてきなさい」と弟子たちに命じられたのでしょう。馬でもラクダでも駄目です。ロバの子でなければなりませんでした。子ロバに乗ったイエス・キリストの目線は上からではなく、群衆と同じくらいの高さであったと思います。これもまた主イエスの柔和を現わしているでしょう。エルサレムという町の名前は、「町」を意味する「イェール」と、「平和」を意味する「シャローム」とが一緒になった言葉で、「平和の町」を意味します。軍隊を率いて武力によって王になるのは、本当の平和ではありません。イエス・キリストは「平和の町」の王として、ロバの子に乗って入城されたのです。

 現在のエルサレムは、平和の王として来られたキリストを拒み、十字架につけてしまったため、二千年経った今でも争いが続いています。平和とは程遠い町です。神殿があった丘には現在イスラム教の金色に輝く岩のドームが立てられています。ユダヤ人には神殿の外壁の西壁だけが解放されていて、嘆きの壁と呼ばれています。そこでユダヤ人は嘆きながら祈ります。もし、彼らがキリストを受け入れるなら、嘆く必要は全くありません。今のエルサレムは父なる神が望んでおられるエルサレムではありません。将来、キリストが再臨されて、このエルサレムに再び入城される時が来ます。その時、エルサレムに本当の平和が訪れます。神が立てられたエルサレムがその名の通り「平和の町」となります。


2.ダビデの子として


21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
21:10 こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。
21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

 群衆が「ダビデの子にホサナ!」と叫んだのには理由があります。それはダビデに約束された預言を皆知っており、待ち望んでいたからです。

Uサムエル7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 ダビデの息子ソロモンが王国を引き継ぎましたが、ソロモンは不信仰によって王国を引き裂いてしまい、王国は続きませんでした。そのため、「ダビデの子孫」から王となる救世主が現れると信じていたのです。ですからイエス・キリストがエルサレム入城されたとき、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。ちなみに「ホサナ」とは「私を救ってください」という意味のヘブル語ですが、時代とともに願いの意味は薄れ、「万歳」という意味合いが強い言葉になりました。



3.神のひとり子として


21:12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」


 「宮きよめ」と呼ばれる個所です。当時の神殿礼拝が大祭司や宮に仕える人にとってお金儲けの場所になっていたことに対する主イエスの怒りです。宗教の名のもとに私腹を肥やす人たちがいることは世の常であり、残念なことです。

※私は以前、年金生活をされている老婦人の家へ幾度か訪問に行きました。一人暮らしの信仰熱心な姉妹で、「私は先生のために毎日祈っていますよ!」と、訪問するたび言ってくださり、牧師を励ましてくださる姉妹でした。ある時、献金の話になり、姉妹が本当に申し訳なさそうに言われました。
「先生、私は年金暮らしで、たくさん献金できないのですが、よろしいでしょうか?こんな私でもどうか見捨てないでください。」
 私はその言葉を聞いて、牧師はこういう方々の祈りと献金によって支えられていることを改めて教えられました。献金が少ないからと言って不平を言ったり、献金を強要したりしてはいけないと思いました。ですから、イエス様が神殿において商売をしている人たちに対して「
『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と言われたことに、心から拍手を送りたいのです。

 宮きよめの出来事ではイエス・キリストが「神の御子」であることが主張されています。神の御子であるが故、エルサレム神殿(神の御住い)はご自身の家だと言われるのです。

 たとえば、あなたが家に帰って部屋の中を見ると、知らないセールスマンがお客を招いて商談会をしていたとしたらどうでしょう。あなたは怒って警察に電話するか、彼らをすぐに追い出すはずです。その場所があなたの家だからです。イエス様も同じことをされたのです。エルサレム神殿はご自身の家だからです。だからその家で商売している人たちを追い出すことは正当な権利です。まして、不正の利をむさぼって悪事を働いている人々を手荒い方法で追い出すことは当然のことです。イエス様の乱暴な行為は正当なことであり、父なる神の神殿を汚す者に対する正義の怒りとさばきでした。

4.回復の主として

21:14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
 盲人の目を開き、足なえを歩かせることは、イエス様がすべてを回復される全能の主であることを証明しています。イザヤ書35章にはメシア王国の光景が預言されています。私達クリスチャンもその王国に入ることが約束されていますから、そう信じて読むなら、何と心躍る喜びに満ちた預言でしょう。
イザヤ35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、
目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく
35:6 そのとき、
足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
35:10 【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。


 この預言の一部をイエス・キリストは成就されました。しかし、イスラエルの不信仰により、王国は延期されました。王国預言の完全成就は、キリストが再臨された後、千年王国において成就することになります。

 マタイは主イエスのエルサレム入城の場面を記しながら、
@預言により約束された平和の王として
Aダビデの子として
B神のひとり子として
C回復の主として
イエス・キリストはエルサレムに来られた!と宣言しているのです。

5.エルサレムの指導者たち

21:15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。
21:16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」
21:17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

 16節は詩篇からの引用です。
詩篇8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 預言の通りに来られたイエス・キリストを、エルサレムの指導者たちは受け入れませんでした。その理由は「自分たちの思い通りのメシアでなかった」からです。罪に汚れた取税人や遊女を受け入れるイエスを赦せませんでした。自分たちが必死に守ってきた言い伝えを無視するイエスを赦せませんでした。何の肩書きもないイエスを軽蔑しました。ガリラヤ出身の田舎者がメシアであるはずがないとつまずきました。だから主イエスも彼らから離れて行かれました。

 二千年経った今でもユダヤ人はメシアを待ち望んでいます。そのため、未だにエルサレムは紛争の中にあります。平和の王として来られたイエス・キリストを受け入れないからです。この状況が変わるのは、イスラエル人たちが『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』と言ってキリストを信じて神に立ち返る時であり、キリストはその時に王国の王として再び天から降りて来られます。

マタイ23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

----------------------------------------------------------
※参考1; ヨハネ福音書11−12章では、イエス様はまずベタニヤに到着され、死んで葬られていたラザロをよみがえらせました。そして、エフライム地方へしばらくの間、立ち退かれ、再びベタニヤへ戻られ、翌日、エルサレムへ入られました。共観福音書著者たちがこの重要と思われるラザロのよみがえりについて一言も記していないのは、なぜでしょうか?
 考えられる理由は、
@マタイ9章においてヤイロの娘をよみがえらせた出来事を記しているため重複を避けた。(ルカ福音書はヤイロの娘とナインの女の息子のよみがえり記事を掲載)
Aマタイ、マルコ、ルカはエルサレムでの出来事に焦点を当てるため、ラザロのよみがえりを省いた。
Bユダヤ人の迫害を恐れて、生き証人であるラザロとその家族をかくまうために記事を省いた。
 ベタニヤはエルサレムに近いこともあり、おそらく三番目の理由が最も可能性が高いでしょう。 ヨハネが福音書を書いたときは晩年になってからであり、すでにラザロたちへの迫害を気にせず記事を書くことが出来たと考えられます。
---------------------
※参考2; ヨハネ福音書では「宮きよめ」の記事を公生涯初期の出来事として扱っているため、イエス様の公生涯中、二度の宮きよめがあったと一般的に考えられています。しかし、私にはどうしても宮きよめが二度、繰り返されたとは思えません。

@ヨハネだけがこの出来事を公生涯の最初の方に記しています。おそらくヨハネはキリストが神の子として来られたお方であることを冒頭から証明するために記載したと考えられます。

A仮に前期ユダヤ伝道でイエス・キリストが宮きよめをされたとするなら、おそらくキリストはすぐに祭司長らによって捕らえられたに違いありません。なぜなら初期ユダヤ伝道時にはイエス様に従う群衆はほとんどおらず、知名度もありませんでした。そんな状況で、いきなりエルサレム神殿に上り、宮きよめをされたなら、犯罪者としてすぐに捕らえられたはずです。しかし、エルサレム入場後では、イエス・キリストに対する群衆の期待と支持は絶大であったからこそ、宮きよめを行なっても誰もイエス・キリストに手出しは出来なかったことがうなずけます。


Bもう一つの問題は、ヨハネによる福音書では宮きよめの記事は、ガリラヤ伝道が開始され、ガリラヤの漁師たちを召命された後の出来事として記しています。直前の出来事はガリラヤのカナでの婚礼におけるしるしです。ガリラヤ伝道が開始された直後にエルサレムでの宮きよめの記事があるのは不自然です。

Cイエス・キリストの公生涯を学べば学ぶほど、イエス様は十字架をご自身の最終目的として歩んでおられ、エルサレムを最終目的地と見据えて遠く離れたガリラヤから伝道されています。ガリラヤ伝道中にはご自分を世にあらわそうとされなかったイエス様が、公生涯のはじめにエルサレムで宮きよめをされてご自分を公に表すことは矛盾しています。参考箇所;ヨハネ7章

Dヨハネ福音書を学ぶなら、ヨハネは時間的順序にこだわらず、主題に沿って福音書(出来事)をまとめていることが分かります。もし、ヨハネ福音書の時間軸を他の福音書に当てはめるなら、矛盾だらけになってしまいます。