マタイによる福音書21章18-27節 「神の訪れの時」  並行箇所;マルコ11:11-33、ルカ20:1-8

 イエス・キリストは、ロバの子の背に乗ってエルサレムへ入城されました。旧約聖書で預言されていたダビデの王座に就くお方として、平和の王として、エルサレムへ入られたのですが、そこで見たものはイスラエルの不信仰でした。神殿に入ると、そこで商売をしていた人や、不正の利を得ていた両替人をご覧になり、怒って机や椅子を倒し、彼らを追い出されました。そして「祈りの家を強盗の巣にしている!」と責められました。エルサレムにおけるイスラエルの不信仰は続きます。それが今日の聖書箇所です。

一、いちじくの木のしるし

21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 いちじくの木のしるしは一見、不機嫌なキリストを示す記事に思えます。実が成る時期でなかったのに、それに腹を立て、呪って枯らせてしまうとはイエス様も大人げないと思われるでしょう。また、キリストに呪われたら恐ろしいことが起こるという脅迫めいた伝道に使われる事になってしまいます。

@ イスラエルの不信仰
 このしるしの目的も、前後関係からイスラエルの不信仰を表していることは明白です。王であるキリストがご自分の国であるイスラエルにやって来られたのに、その訪れの時を知らず、実を結んでいないイスラエルを見て、キリストは怒っておられるのです。旧約聖書にはぶどうといちじくがよく取り上げられ、イスラエルに例えられています。次の聖書箇所はイスラエルを実の無いぶどうの木、いちじくの木としてたとえ、その不信仰を非難する言葉となっています。
エレミヤ 8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。──【主】の御告げ──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」
ホセア 9:10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。


 ルカによる福音書にはいちじくのしるしは記されていませんが、その代わりとなる主イエスの言葉を記しています。
ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、
神の訪れの時を知らなかったからだ。」
 神であるキリストが来られたとき、イスラエルは信仰の実を結んでいなければならなかったのに、実を結んでいませんでした。彼らには神の裁きが用意されていることを主イエスは泣いて悲しんでおられます。事実、約40年後に、ローマ軍によりエルサレムは火で焼かれ、陥落します。その後、イスラエルは約1900年間離散の民となっていたのです。1948年5月14日にイスラエル国家が再建されましたが、翌日5月15日から第一次中東戦争が始まっています。それ以来、アラブ人、パレスチナ人、イスラム教徒との紛争の中にあります。いつまで紛争は続くのでしょうか?・・・イエス様が預言されています。
マタイ 23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

 イスラエルが正しい信仰に立ち返る時まで紛争は続きます。イスラエルがキリストを信じて待ち望むようになる時に、キリストは再臨し、王国を治められます。勿論、ちょっとやそっとではイスラエル国がキリストを信じるようになるとは考えられません。そのために七年間の患難期が用意されています。そのとき、ユダヤ人大虐殺が再び行われます。その恐ろしい患難の時を通して、イスラエルの人々は不信仰を悔い改めて主に立ち返るようになります。その時、キリストはイスラエルを救うために再臨され、王国を支配されるのです。

A祈りの力
 いちじくのしるしには続きがあります。弟子たちが驚いて「どうして枯れたのでしょう?」と質問すると、イエス様が次のように答えられます。
21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 いちじくのしるしについて、弟子達にはイスラエルの不信仰云々という事を言われず、「信じて祈り求めなさい」という結論で教えられました。その理由として考えられるのは、
a. 弟子たちは少ない実であるので、彼らを責める必要がないから。
b. 弟子達にはまだ理解できないことだったから。
c. 弟子たちはいちじくの木が枯れた意味を知りたかったのではなく、枯れたことに驚いたから。
d. 弟子たちに対しては、祈りの力としての教訓とされた。

 「山を動かす信仰」については17章でも主イエスが語っておられました。
マタイ 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
 「山を動かす」とはユダヤの慣用句で「大きな問題を解決する」ことを意味する言葉として用いられていたと話しました。しかしイエス様は実際の山を指して言われていると思えてなりません。
a.17章では高い山から降りてきてすぐの会話でした。21章ではベタニヤからエルサレムへの途中なので、当然オリーブ山が目の前にありました。
b.「いちじくの木になされたようなことができるだけでなく」・・これは不思議なしるしを指していますので、「山」だけを抽象的に捉えるのは片手落ちだと感じます。
c.旧約聖書には驚くべきしるしが行なわれ(モーセは海を割り、岩から水を出した。ダニエルの三人の友は熱い炉の中でも焼かれなかった、等々)、イエス様も弟子たちも不思議なしるしを行いました。
d.17:20は薄い(小さい)信仰を責められています。
e.信仰の創始者であるキリストは、実際の山を動かすことが出来るお方です。
  オリーブ山
 いずれにしても、「信じて祈り求めるものは、何でも与えられる」というイエス様の言葉を信じることが求められています。薄い信仰(小さい信仰)ではなく厚い信仰(大きな信仰)を持ちましょう。

二、指導者たちとの権威論争

21:23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

 続く記事も、当時のイスラエルの指導者たちの不信仰を示しています。エルサレムの指導者たちは「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」と質問します。認められていた両替人や商売人を追い出して、宮で勝手に教えていたイエスに彼らは怒っていました。当時、聖書(聖書だけでなくミシュナ・口伝律法も教えていた)を教える教師をラビと呼んでいました。ラビとなるためには知識と訓練が必要であり、有名なラビの門下生となって学ぶのが通常でした。(パウロはラビ・ガマリエルに付いて学んでいました。使徒22:3)そしてラビとしての資格を持つためには、最低3人のラビの立会いの下、恩師のラビによって按手される必要があったそうです。ですから、彼らの質問は、「あなたはどのラビから学んで按手を受けたのか?あなたには教える権威がないのではないか?」と言いたいのです。
 イエス様は彼らの真意を知っていました。ですから、当時のラビたちが質問を質問で答えていたように、イエス様も真のラビとして質問で答えられます。
21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

 イエス様が受けた資格と考えられるのは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたことです。人間的な資格というなら、それだけです。しかし、そのことに主イエスは全く触れていません。というのは、重要なのは水のバプテスマを受けられた後、
マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 父なる神の承認・・これが主イエスに与えられた権威だからです。人から与えられる権威は神の御前ではまったく無に等しいことを教えられます。イエス様はバプテスマのヨハネを引き合いに出されます。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」 ヨハネは人から任命されたのではなく、神から預言者として任命され、働いたのです。彼は歴史上、最も偉大な預言者となりました。神がヨハネに与えた権威を認めるなら、イエス・キリストに与えられている権威も認めなければならないのです。
 祭司長たちは今度は自分たちが窮地に立たされたと知り、「わかりません」と答えます。そのかたくなな心のゆえに、主イエスは「わたしも話さない」と言われたのです。当時の宗教指導者たちが、人間的な権威を誇り、いかに言い伝えに縛られて生きていたかを教えられます。誇るための宗教、人を裁くための宗教に成り下がっていた実態を知ります。

 知り合った人に「わたしは牧師をしています」と言うと、「牧師になる資格というのがあるのですか」と質問されることがあります。多くの方々は検定試験の様なものがあるのかと思われるのでしょう。「牧師になる資格というのはありませんが、でたらめを教えてはいけないので、聖書神学校で聖書を学びました」と、答えるようにしています。私は牧師の資格をお金で買いませんでした。人からいただいたのでもありません。神学校を卒業したから与えられたのではありません。神様が私を召命してくださったという確信だけです。按手礼を受けたのは、その働きを認めていただき、祝福を祈っていただくためです。牧師の資格は神様の召命があるかないかにかかっているのです。

 イエス様は父なる神の御心に従って真理の教師として来られたのに、エルサレムの指導者たちは「お前には教える資格がない」と非難しました。イエス様は実が成っているのを期待してエルサレムへ来られたのに、そこにあったのは葉ばかり生い茂った形だけのユダヤ教でした。実がないイスラエルでした。そこに主イエスの怒りと嘆きがあるのです。

三、私たちへの教訓

 今朝の聖書箇所は、今日の教会に対する教訓でもあります。キリスト教という枠の中で、形骸化し、不正の利を求め、人間の権威を誇り、人を裁いてしまう危険が常に伴うからです。教会も気をつけなければ、イスラエルと同じ過ちを繰り返すことになります。

 キリスト教を愛するのではなく、キリストを愛しましょう。教会が福音を伝える使命を忘れて、楽しいおしゃべりの場となってしまわないように心がけましょう。教会に集う時、そこから一人一人が世に証し人として遣わされていくことを忘れないようにしましょう。

 聖歌「キリストにはかえられません」の2番は次のように歌います。
    「キリストにはかえられません 有名な人になることも  人のほめる言葉も この心をひきません
    世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ行け    キリストにはかえられません。 世の何ものも」