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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書21章18-27節「神の訪れの時」

 イエス・キリストは、子ロバの背に乗ってエルサレムへ入城されました。旧約聖書で預言されていたダビデの王座に就くお方として、平和の王として、エルサレムへ入られたのですが、そこで見たものはイスラエルの不信仰でした。神殿では、商売人や不正の利を得ていた両替人をご覧になり、怒って机や椅子を倒し、彼らを追い出されました。そして「祈りの家を強盗の巣にしている!」と叫ばれました。
 エルサレムにおけるイスラエルの不信仰は続きます。それが今日の聖書箇所です。

一、いちじくの木のしるし

21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。


 いちじくの木のしるしは一見、不機嫌なキリストを示す記事に思えます。実が成る時期でなかったのに、いちじくの木に腹を立て、呪って枯らせてしまうとはイエス様も大人げないと思われるでしょう。また、キリストに呪われたら恐ろしいことが起こるという脅迫めいた伝道に使われる事になってしまいます。

@ イスラエルの不信仰
 このしるしの目的も、前後関係からイスラエルの不信仰を表していることは明白です。王であるキリストがご自分の国であるイスラエルにやって来られたのに、その訪れの時を知らず、実を結んでいないイスラエルを見て、キリストは怒っておられるのです。

 旧約聖書にはぶどうといちじくがよく取り上げられ、イスラエルに例えられています。次の聖書箇所はイスラエルを実の無いぶどうの木、いちじくの木としてたとえ、その不信仰を非難する言葉となっています。

エレミヤ 8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。──【主】の御告げ──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」
ホセア 9:10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。


 ルカによる福音書にはいちじくのしるしは記されていませんが、その代わりとなる主イエスの言葉があります。

ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、
神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 神であるキリストが来られたとき、イスラエルは信仰の実を結んでいなければならなかったのに、実を結んでいませんでした。彼らには神の裁きが用意されていることを主イエスは泣いて悲しんでおられます。事実、約40年後に、ローマ軍によりエルサレムは火で焼かれ、陥落しました。その後、イスラエルは約1900年間離散の民となっていたのです。1948年5月14日にイスラエル国家が再建されましたが、翌日5月15日から第一次中東戦争が始まっています。それ以来、アラブ人、パレスチナ人、イスラム教徒との紛争の中にあります。いつまで紛争は続くのでしょうか?・・・イエス様が次のように預言されています。

マタイ 23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

 イスラエルが正しい信仰に立ち返る時まで紛争は続きます。イスラエルがキリストを信じて待ち望むようになる時に、キリストは再臨し、王国を治められます。勿論、ちょっとやそっとではイスラエル国がキリストを信じるようになるとは考えられません。それで神様は七年間の患難期をご計画されています。そのとき、ユダヤ人大虐殺が再び起こります。その恐ろしい患難の時を通して、イスラエルの人々は不信仰を悔い改め、主に立ち返るようになります。その時、キリストはイスラエルを救うために再臨され、王国を支配されるのです。



A祈りの力
 いちじくのしるしには続きがあります。弟子たちが驚いて「どうして枯れたのでしょう?」と質問すると、イエス様は次のように答えられました。

21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 いちじくのしるしについて、弟子達にはイスラエルの不信仰云々という事を言われず、「信じて祈り求めなさい」という結論で教えられました。それは、弟子たちは少ない実であり、彼らを責める必要がないからでしょう。 弟子たちには、祈りの力としての教訓とされました。

 「山を動かす信仰」については17章でも学びました。
マタイ 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 「山を動かす」とはユダヤの慣用句で「大きな問題を解決する」ことを意味する言葉として用いられていました。しかしイエス様は実際の山を指して言われていると思えてなりません。

a.17章では高い山から降りてきてすぐの会話でした。21章ではベタニヤからエルサレムへの途中なので、当然オリーブ山が目の前にありました。
b.「いちじくの木になされたようなことができるだけでなく」・・これは不思議なしるしを指していますので、「山」だけを抽象的に捉えるべきでないと感じます。
c.旧約聖書には驚くべきしるしが行なわれ(モーセは海を割り、岩から水を出した。ダニエルの三人の友は熱い炉の中でも焼かれなかった、等々)、イエス様も弟子たちも不思議なしるしを行いました。
d.17章20節では薄い(小さい)信仰を責められています。
e.信仰の創始者であるキリストは、実際の山を動かすことが出来るお方です。

 オリーブ山

 いずれにしても、「信じて祈り求めるものは、何でも与えられる」というイエス様の言葉を信じることが求められています。薄い信仰(小さい信仰)ではなく厚い信仰(大きな信仰)を持ちましょう。

二、指導者たちとの権威論争

21:23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

 続く記事も、当時のエルサレムの指導者たちの不信仰を示しています。指導者たちは「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」と質問しました。両替人や商売人を追い出して、宮で勝手に教えていたイエスに彼らは怒っていたからです。

 当時、聖書(口伝律法も含む)を教える教師をラビと呼んでいました。ラビとなるためには知識と訓練が必要であり、有名なラビの門下生となって学ぶのが通常でした。(パウロはラビ・ガマリエルに付いて学んでいました。使徒22:3)そしてラビとしての資格を持つためには、最低3人のラビの立会いの下、恩師のラビによって按手される必要があったそうです。ですから、彼らの質問は、「あなたはどのラビから学んで按手を受けたのか?あなたには教える権威があるのか?」と言いたいのです。

 イエス様は彼らの真意を知っていました。ですから、当時のラビたちが質問を質問で答えていたように、イエス様も真のラビとして質問で答えられました。

21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

 イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。人間的な資格と言えばそれだけです。しかし、そのことにイエス様は全く触れておられません。はるかに勝る資格を持っておられたからです。その資格とは、

マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 
父なる神の承認・・これが主イエスに与えられた資格、権威だからです。イエス様は神(天)から与えられた権威を教えるために、バプテスマのヨハネを例に出されました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。

 ヨハネは人から任命されたのではなく、神から預言者として任命され、働いたのです。彼は歴史上、最も偉大な預言者となりました。ヨハネに与えた天からの権威を認めるなら、イエス・キリストに与えられている権威も認めなければならないのです。

 祭司長たちは今度は自分たちが窮地に立たされたと知り、「わかりません」と答えました。そのかたくなな心のゆえに、主イエスは「わたしも話さない」と言われました。当時の宗教指導者たちが、人間的な権威を誇り、いかに言い伝えに縛られて生きていたかを教えられます。誇るための宗教、人を裁くための宗教に成り下がっていた実態を知るのです。

 私事ですが、知り合った人に「わたしは牧師をしています」と言うと、「牧師になる資格というのがあるのですか」と質問されることがあります。多くの方々は検定試験の様なものがあるのかと思われるのでしょう。「牧師になる資格というのはありませんが、聖書神学校で聖書を学びました」と、答えるようにしています。私は牧師の資格をお金で買いませんでした。人からいただいたのでもありません。神学校を卒業したから与えられたのではありません。神様が私を召命してくださったという確信だけです。按手礼を受けたのは、その働きを認めていただき、祝福を祈っていただくためです。牧師の資格は神様の召命があるかないかにかかっているのです。

 イエス様は父なる神の御心に従って真理の教師として来られたのに、エルサレムの指導者たちは「お前には教える資格がない」と非難しました。イエス様は実が成っているのを期待してエルサレムへ来られたのに、そこにあったのは
葉ばかり生い茂った形だけのユダヤ教でした。実がないイスラエルでした。そこに主イエスの怒りと嘆きがあるのです。

三、私たちへの教訓

 今回の聖書箇所は、今日の教会に対する教訓でもあります。キリスト教という枠の中で、形骸化し、不正の利を求め、人間の権威を誇り、人を裁いてしまう危険が常に伴うからです。教会も気をつけなければ、イスラエルと同じ過ちを繰り返すことになります。



 キリスト教を愛するのではなく、キリストを愛しましょう。教会が福音を伝える使命を忘れて、楽しいおしゃべりの場となってしまわないように心がけましょう。教会に集う時、そこから一人一人が世に証し人として遣わされていくことを忘れないようにしましょう。

 聖歌「キリストにはかえられません」の2番は次のように歌います。

キリストには代えられません
有名な人になることも
人のほめる言葉も、この心を惹きません
世の楽しみよ、去れ
世の誉れよ、行け
キリストには代えられません
世の何ものも