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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書21章28-46節「三つのたとえ話;前半」



 イエス・キリストはユダヤ人の王としてエルサレムへ入城されました。しかし、そこで見たものはエルサレム神殿が商売の場所となり、指導者たちは堕落し、形骸化したユダヤ教の姿でした。葉っぱばかりで実の無いいちじくは、イスラエルの姿そのものでした。イエス様は三つのたとえを用いて、イスラエルの過去と現在、そして未来を示されます。

一、 兄と弟のたとえ

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。
21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

 
 「行きます」と言いながら行かなかった兄、「行きたくない」と言いながら行った弟――それは「神様に従います」と言いながら従わない人、「従いません」と言いながら悔い改めて従う人を表しています。どちらが神様の御心を行なったのでしょうか?・・もちろん後の人です。

 エルサレムの指導者たちを目の前にして主イエスは、「あなたがたは口先では律法に従うと言っているのに、神から遣わされたバプテスマのヨハネを受け入れなかった」と責めておられます。
 他方、取税人や遊女たちは律法に従わず、罪人として歩んでいたのですが、ヨハネが来たとき、彼らは悔い改めて水のバプテスマを受けました。彼らは神の御心に従ったのです。

 指導者たちはなぜバプテスマのヨハネを受け入れなかったのでしょうか?・・ヨハネが当時のユダヤ教の型に全くはまらない人だったからです。ラビとして正式な按手を受けた人ではありませんでした。会堂ではなく荒野へ出て行って説教しました。彼らはヨハネの説教を聞いても「私たちは間違っていない、悔い改める必要はない」と考えたのです。イエス・キリストは彼らの悔い改めない態度を非難されているのです。



二、 ぶどう園の主人と農夫のたとえ


21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
21:36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。
21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
21:39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

 このぶどう園の主人は何とお人好しでしょう。ぶどう園を農夫に契約して貸しているのですから、収穫の分け前を受け取るのは当然です。しかし農夫たちは一度ならず二度までも(ルカ福音書では三度)、取り立てに来たしもべたちを袋だたきにし、殺しました。しかし主人は『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わします。案の定、農夫たちは主人の息子も殺してしまいます。さすがにこれには主人も怒り、農夫たちに裁きをくだすのです。

 このたとえは、まさにイスラエルの歴史そのものです。ぶどう園の主人とは天の父なる神様です。農夫とはイスラエル人です。神様はイスラエルにカナン(パレスチナ)の地を与え、律法を与えて契約を結び、彼らから信仰の実を収穫することを待ち望んでいました。しかし収穫がないのです!――父なる神は何度も預言者たちを遣わしました。けれどもイスラエルの民はその預言者たちを袋叩きにし、別の預言者たちを殺したのです。父なる神はそれでも忍耐し、最後に御自身のひとり子イエス・キリストを地上に遣わされました。しかし、イスラエルは彼をエルサレムの都の外に連れ出して十字架につけて殺しました。
 このたとえを通してイエス様は、イスラエルが神に反逆してきた歴史を示し、そして、今、まさにご自身を十字架につけようとしていることを預言されました。

 エルサレムの指導者たちはこのたとえが自分たちのことだと気が付かず、墓穴を掘っています。
21:40 この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
21:41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

 彼らは二つの点で、自分たちの身に不幸を招いています。

@ 悪党どもを情け容赦なく殺して
 彼らが認めたとおり、ユダヤ人の上に神の裁きがくだりました。エルサレムは約40年後にローマ軍に攻められ、滅ばされました。ユダヤ人は情け容赦なく殺され(110万人が殺されたと言われています)、残った人々は離散の民となってしまいました。

A そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません
 エルサレムの指導者たちは、神の祝福がイスラエルから取り上げられ、別の国民に与えられることを当然のことだと自ら認めてしまったのです。その国民とは、異邦人であり教会です。イスラエルが見捨てたイエス・キリストが教会の礎となり、教会に神様の祝福が与えられています。

21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
21:43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
21:44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。


三、 イスラエルと教会

@ 栽培種のイスラエル
 使徒パウロはローマ人への手紙11章で次のように書いています。
「イスラエルという栽培種のオリーブの枝は切り取られ、教会という野生種のオリーブの木である教会が接木された」と。しかし、将来イスラエルは再び元のオリーブの木に接木され、その時に「イスラエルはみな救われる」という聖書の預言が成就すると、神のご計画を明らかにしています。

 つまり、ぶどう園のたとえには続きがあるという事です。ぶどう園の主人は息子を農夫たちに殺されたので、農夫たちを全員さばいて殺してもよかったのです。しかし、主人は懲らしめを与えただけで、彼らに再びチャンスを与えられたのです。一人息子を殺されても、その死を無駄にしないために、彼らが悔い改めて神に立ち返り、実を結ぶことを待ち望まれる・・・ここに人間に対する創造主の忍耐が示されています。なんとお人好しの神様でしょう。なんとあわれみ深い神様でしょう。

A 野生種の教会
 今の教会時代において、教会にはイスラエルに与えられるはずの祝福が代わりに与えられています。神様のあわれみと愛が注がれています。そして実を結ぶことが求められています。
 クリスチャンのみなさん、あなたはどんな実を結ぼうとしているでしょうか?信仰の実、御霊の実、善い行ないの実、伝道の実・・いろいろあるでしょう。人それぞれに違う実があるのだと思います。大切な事は
実を結ぶことです。そのために次のイエス様の言葉を心に留めましょう。

ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 ぶどうの木から折られた枝は、みるみるしおれ、枯れてしまいます。実を結ぶどころか、邪魔になり取り除かなければなりません。クリスチャンがイエス様から離れてしまったら、みるみる元気がなくなります。枯れてしまいます。しかし、イエス様にとどまるなら、必ず実をならせることが出来ます。天の神様は、あなたが実を結ぶことを待ち望んでおられます。どうかすてきな実を実らせてください。

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参考:兄と弟のたとえには、翻訳の問題があります。
 新改訳は「弟がぶどう園へ行き、兄は行かなかった」と訳していますが、新共同訳をはじめ多くの翻訳は、「弟は行かず、兄が行った」となっています。(文語訳、口語訳、新改訳、現代訳は「兄は行かなかった」としており、共同訳、新共同訳、回復訳、NIV等は「兄は行った」としています。)それは、採用したギリシャ語テキストの違いによります。

 現在、最も信頼されているギリシャ語テキストは
ネストレ・アーラント(Nestle-Aland)と呼ばれています。発見された5000を超える新約聖書の写本を比較研究してまとめたもので、常に改定が続けられています。新たな写本の発見や、写本の解析技術の向上などもあり、比較研究が重ねられており、現在では28版NA28が最新版です。日本語聖書を含め世界の聖書のほとんどはこのネストレ・アーラントが底本となっています。そのネストレ・アーラント25版までのものは「兄は行かなかった」となっており、26版以降の版から「兄は行った」と改訂されていることが翻訳の違いの要因となっています。

 新改訳はギリシャ語に忠実に訳そうとしていますが、この箇所を「兄が行かなかった」と翻訳しているのは、その方が文章の流れからするとつじつまが合うと判断して、あえて25版までの立場をこの箇所に関しては採用していると思われます。

 ちなみに、現在も用いられているギリシャ語テキストには
テクストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus:ラテン語で「受け入れられたテキスト」の意味)があります。このテキストは、エラスムスとオランダの人文学者たちによって校訂され、1516年に印刷されたギリシア語新約聖書本文です。公認本文とも呼ばれ、世界初の出版されたギリシア語新約聖書です。日本語文語訳はこれを底本として訳されました。

※欽定訳聖書(The King James Version : KJV)はイギリスのジェームス王1世の命により1611年に出版された英語聖書で、かつては神聖視され、権威ある聖書とされていましたが、後に多くの有力な写本が発見されている現在では、過去の遺産となっています。KJVはテクストゥス・レセプトゥスから訳されています。

※新約聖書のギリシャ語写本には、現在、三つの重要な写本があります。バチカン写本(15世紀に確認;バチカン図書館の目録による)、シナイ写本(1844年発見)、アレクサンドリア写本(17世紀に入って確認)が三大ギリシャ語写本です。