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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書3章1-15節「新しく生まれるとは」


 2章において、水をぶどう酒に変える最初のしるしと、宮きよめの記事には共通点がありました。それはユダヤ人がかたくなに守ってきた習慣やしきたりに対するイエス様の糾弾でした。主イエスは、父なる神の御心を示し、正しい神の道を示そうとされておられるのです。
 今日の聖書箇所では、ユダヤ人の指導者が登場します。ニコデモという人です。彼は当時のユダヤの最高議会であったサンヘドリンの議員でした。イエス様は、このユダヤ人指導者、ニコデモとの対話を通して、新しく生まれることについて教えられます。

一、ニコデモの思い

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 ニコデモは、「パリサイ人で、ユダヤ人の指導者」と書いてあるとおり、旧約聖書の律法を重んじ、敬虔な生活を送り、神に対する信仰と神の義を求める人であったと思われます。彼は他のパリサイ人たちとは異なり、イエス・キリストが行なわれた奇跡や教えを人伝えで聞いた時に、偏見を持って彼を異端者と決め付けることはしませんでした。他の指導者たちはイエス・キリストの奇跡を見て、「あれは悪霊の働きだ」「悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と悪く受け取ったのですが、ニコデモは、直接自分で会って話しをするまで判断すべきでないと考えました。「もしかするとイエスという人は本当に神が遣わされたお方であり、神がダビデ王に約束された王国を支配するメシアかも知れない」・・そのような期待もあり、直接イエスに会いに行こうとします。しかし指導者という立場もあり、イエスの弟子になろうとしていると思われたくなかったので、昼間ではなく、あえて夜に人目を避けてイエスを尋ねたのです。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 イエス様はニコデモの心の中をよく知っておられました。律法の教えに精通し、正しい心を持ってダビデの王国の再建を待ち望んでいた彼に対して、あえてイエス様は目に見える王国よりもっと重要な神の王国について話されました。それは永遠の王国であり、永遠のいのちを持つ者だけが受け継ぐ王国です。そこに入るためには新しく生まれなければならないと教えられました。

二、新しく生まれるとは

 私たち日本人にとって新しく生まれるという教えは、仏教の輪廻転生を思い浮かべます。人は死んだ後に新しいものに生まれ変わるという思想で、よく「あなたの前世は何々でした」という人がいます。私も以前、あるかたに「あなたの前世はアラブ人ですね」と言われたことがありました。「顔に出ています」と確信を持って言われました。単に顔の堀が深いことを遠まわしに皮肉られているのかなと苦笑いでした。それはさておき、輪廻転生の教えは真理ではなく、それは人間の欲求から生まれてきたものです。永遠に生きたい、生まれ変わりたいという願望を誰もが持つからです。以前、歌手の井上用水の「人生が二度あれば」と切なげに歌う曲がありました。私はフォークソングドンピシャの世代、そして誕生日が彼と同じということもあって、井上用水のLPレコードを買い、それこそ擦り切れるほど何度も聞いていました。人生が二度あれば・・・誰もが願いたいことです。輪廻転生の教えは人間の願望から生まれ、人々に受け入れられていったのです。
 しかしイエス・キリストの教えは、そのような人間の欲求や願望から生まれたものではありません。天と地上をつなぐはしごとして、神のことばを語られているのです。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」
 そのことばにニコデモは率直に質問します。
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
 イエス様の答えは、
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 ここでのイエス様の答は霊的示唆に富んだ深いことばです。その答えの中で、人間は新しく生まれることができると、はっきり教えておられます。しかしそれは、歳をとって死んでからではなく、今、生きている間に新しく生まれるという教えです。それは体のことではなく、「御霊によって生まれる」ということです。5節では「水と御霊」と書いていますが、水は洗い清めることを示しますので、罪の赦しを受けて御霊によって新しく生まれるという意味です。神の第三位格である御霊によって新しく生まれる、とは理解しにくいことですから、イエス様はわざわざ解説を加えられています。それは目で見えるようなものではなく、風のように見えなくても確かにその存在を理解するように、御霊によって新しく生まれることも、確かに起きることを教えられました。御霊は目に見えませんが、私たちの内側で働いて事を成し遂げられます。ギリシャ語を見ると「風」という語も「御霊」という語も同じ「プニューマ」が用いられており、まさにふさわしい例えとなっています。そして、御霊によって新しく生まれた者だけが、永遠の神の国を見ることができると教えられたのです。

三、ニコデモの戸惑い

 イエス様のことばを聞いてニコデモは疑問に思ったのでしょう。「なぜ御霊によって新しく生まれ、罪の無い者となれるのか。自分たちは、懸命に神の教えである律法を守り、苦労し、それを教えてきた。神の律法を守ることこそ神の国に入るために必要な事ではないか。罪人がどうして神の国に入ることができるのか?」と。
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことが分からないのですか?」と厳しいことばです。つまり聖書を学んでいるなら、「御霊によって生まれる」ということがどういうこと理解できるはずだ、とイエス様は語られているのです。その聖書の箇所の一つは次でしょう。
エゼキエル36:25-27
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

 神の霊を与えられることによって新しい心、新しい生き方に変えられることを旧約聖書も預言していたのです。そしてもう一つの旧約聖書の出来事に目を向けましょう。

民数記21:4−9
21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 この箇所では、エジプトを脱出したイスラエルが荒野で食べ物も飲み物も無くなった時に、モーセたちに文句を言う場面です。それは彼らを導かれている神に対する文句でした。イスラエルの反逆の罪のゆえ、神様は燃える蛇を送り、彼らをさばかれたのですが、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見た者は救われました。このとき、なぜ青銅の蛇を仰ぎ見ると救われたのかは誰にも分かりませんでした。なぜ呪われた蛇を仰ぎ見るのか、モーセでさえ理解できなかったでしょう。この事件はまさに後のイエス・キリストの十字架を予表するものでした。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
 イエス様はこの出来事を解き明かし、御自身が呪われた者となって木にかけられ、殺されなければならない事を示されました。そして、十字架に架けられたイエス・キリストを仰ぎ見るとき、その人の罪は赦され救われるのです。従って、救いは律法の規定を守ることによって与えられるのでなく、ただ信仰によって救われることを示し、ニコデモの考え違いを訂正し真理に導こうとされたのです。
 ※聖書を学んでいくと神様の知恵に驚かされます。旧約聖書の出来事の多くが、イエス・キリストのことを啓示していたことに気づかされます。歴史を通して神様はずっと救いの計画を実行に移してこられました。いろいろな出来事を通して、また多くの預言者たちの口を通してイエス・キリストの救いを啓示されました。聖書の教えを外国の宗教だとか、排他的だとか偏見を持って受け取るのは愚かな過ちです。

 ここに登場するニコデモは、イエス様に会いに行き、顔と顔を合わせ、心にあった疑問をぶつけて、そして信仰に導かれました。彼は後にイエス・キリストが十字架に架けられ殺された時に、その遺体の取り降ろしを願い出て、弟子たちと一緒に遺体を手厚く葬りました。ニコデモは御霊によって新しく生まれ、キリストを愛する人に変えられたのです。
Uコリント 5:17  だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。