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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書 4章1-18節「まことの礼拝者@」

 本日の聖書箇所には、イエス・キリストとサマリヤの女性しか登場しません。いつもは大勢の群集や弟子たちに囲まれているイエス様ですが、このときは周りに誰もいませんでした。二人の会話に焦点が当てられています。のどがカラカラに渇いたイエス様と、心がカラカラに渇いた女性との会話です。サマリヤの女性に真理を示し、信仰へ導こうとされるイエス様の深いことばに教えられる箇所です。

1.ユダヤ人とサマリヤ人 1−6節

4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、
4:2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
 
 ヨルダン川でバプテスマを授けていたイエス様と弟子たちは、再びガリラヤへ戻ります。パリサイ人たちとの衝突を避けるためと考えられます。その時に「サマリヤを通っていかなければならなかった」というのは、地理的な問題があって、サマリヤを迂回することが出来なかったと思われます。
 当時、ユダヤ人たちはサマリヤ人と交際をしなかったので、サマリヤを通らず、わざわざヨルダン川を越えて渓谷沿いの険しい道を通っていくのが常でした。もともとサマリア人もユダヤ人と同じイスラエル人でしたが、サマリアがアッシリア帝国によって滅ぼされたとき、多くのサマリヤの人々はアッシリアに捕囚されました。そして代わりに他の国から外国人が移住してきてサマリアに住むようになりました。その外国人と残されたサマリヤの人々とが混ざりあって当時の「サマリア人」となりました。イスラエル人は「神に選ばれた民族」という自負を持ち、血筋を大切にします。それは律法が外国人との結婚を禁じているからです。それゆえ、純血性を失い、外国の習慣や偶像礼拝が持ち込まれたサマリヤ人をさげすみ、彼らとの交際を禁じたのです。ですからユダヤ人はサマリヤと交際せず、ガリラヤへ行くときにはサマリヤを通らずにわざわざ遠回りしたのです。

 しかしイエス様はあえてサマリヤを通られたとも考えられます。それは神の愛と真理を明らかにするためです。サマリヤ人を見下し、堕落した人々と言って差別することは正しくないことです。それを象徴するのは、イエス様とサマリヤの女が居た場所は、ヤコブの井戸のかたわらでした。神様の祝福に預かり、「イスラエル」という名前を頂いたヤコブの井戸なのです。神様の恵みと祝福はここにもあることをイエス様は示そうとしておられるのです。

2.サマリヤの女との会話 7-18節

 そのような時代背景がありましたので、イエス・キリストがサマリヤの女性に水を求められたときの女性の驚きはいかばかりだったでしょう。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──

 このサマリヤの女性はとても大きな問題を抱えていました。後で分かることですが、五度も結婚離婚を繰り返し、今も一人の男性と一緒に住んでいるという状況でした。なぜそのようなことになったのか、死別なのか、生活のためなのか、聖書はその理由について何も触れていません。しかし、いくらサマリヤの町自体が堕落していたとしても、五度も結婚離婚を繰り返したのは、問題視されてしかるべきでしょう。男性に頼る事しか出来ない女性だったのかもしれません。理由はなんにせよ、おそらく町の人たちからもつまはじきにされ、陰口をたたかれていたのではないかと思います。それで堂々と人前を歩けなかったのでしょう。人目を避け、町の女性たちが井戸に水を汲みに来る時間帯を避け、真昼の暑い中、水を汲みに井戸へ来ていたのです。

 彼女の心の中はカラカラに乾いた状態だったのでしょう。彼女が手に持っていたのは井戸の水でした。ヤコブの井戸から汲み上げた一時的に喉を潤すこの世の水でした。しかしその水は心まで潤すことは出来ません。その彼女に声をかけられたイエス様は、旅の疲れのために喉がカラカラでした。しかし心を潤すいのちの水を持っておられました。ヤコブの井戸水とは違う、永遠の天上の水でした。この二人の会話ですから、なかなか噛み合いません。イエス様が霊的なことを語られても、女性は現実的なことしか見ていませんから、噛み合わないのです。

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 最後までサマリヤの女性は現実しか見ていません。イエス様のことばを聞き、「この人は何か特別な水でも持っておられるのか?もしかするとどこかの大地主さんで、水が湧き出る泉を持っておられてこんなことをおっしゃっているのでは?」・・そんな考えが浮かびます。霊的にまったく鈍感な人なのです。

 そこでイエス様は話の切り口を変えられます。
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
 彼女が最も隠しておきたいこと、触れてほしくないことにイエス様は話を持っていかれます。当然彼女は隠し通そうとして「私には夫はありません」と突っぱねます。しかし、その後のイエス様のことばは、
イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 サマリヤの女の驚いた顔が目に浮かびます。「この人は私のすべてを知っておられる!」彼女の心の中で一瞬に目が開かれていきました。

3.永遠と一時的、天上と地上、霊的と肉的


 このサマリヤの女性は、あまりにも殺伐とした生活の中にいて、霊的には全く鈍感でした。救い主が目の前におられ、救いのことばを語られ、永遠のいのちの水を与えようとしておられるのに、それを理解できません。彼女には目の前のものしか見えていなかったのです。

 クリスチャンはなおさら霊的に鈍感であってはならないはずです。福音を聞き、真理に目が開かれ、御霊を与えられているのですから、御霊に導かれて生活できるはずです。
ガラテヤ 5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
 しかし、その生活を妨害するものがあります。肉の思いです。
ガラテヤ5:19-21 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
 罪を犯す時には御霊の導きを失ってしまいます。御霊の働きを差し止めてしまうからです。また、この世のことばかりに目を向けるなら、心も世のものに支配されてしまいます。ですから、次の聖書のことばは大切です。
Tテサロニケ5:16-19  いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。
 永遠のものと一時的なもの、天上のものと地上のもの、霊的なものと肉的なもの、その区別を知らなければなりません。一時的なもの、地上のものは生活のために必要ですが、私たちが天の御国へ入るためにはまったく役に立ちません。永遠のもの、天上のもの、霊的なものこそ私たちの本当のいのちのために必要なのです。