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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書5章1-14節 「ベテスダの池のしるし」


一、ベテスダの池

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
 今日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書における第三番目のしるしの記事です。エルサレムにあるベテスダという池のそばに伏せっていた病人をイエス様が癒されました。
◎ベテスダとは「あわれみの家」という意味。エルサレムの旧市街地にあるアラブ人居住区の一角にあり、現在ではその一部が発掘されています。
◎三節後半から四節は挿入文となっています。※有力な写本群には記載がありません。恐らく聖書を書き写した人が、説明として書き込んだと思われます。
◎ベテスダの池には、御使いが降りてきて、病気を直してくれるという言い伝えがあり、常に多くの病人たちが集まっていました。
 ※神様の特別なあわれみの場所として、実際に病人がいやされていたのかもしれませんし、単なる迷信であったのかもしれません。日本においてもそのような話はどこにでもあるものです。熊本県南阿蘇村には「宝くじの神様」として知られる神社があります。重機の運転手が工事を行っていたところ大きな岩に当たり、運転手が岩を取り壊そうとすると、重機が壊れてしまいました。その日の夜、夢に岩が出てきて「どうして私を壊そうとするのか?」と言いました。そこで運転手は「生活の為に金が必要だ」と答えました。すると岩は「それなら宝くじを買いなさい。」と告げました。運転手は半信半疑で宝くじを買ったところ当銭しました。すると、その話を聞いた人が同じようにして宝くじを買ったところ、大当たりしました。そして次々とそのような人が現れたのです。また、蒲郡市西浦町には無量寺というお寺があります。一人の女性が胃がんを宣告されたのですが、このお寺で祈ったところ、癌が完治したと言うので、癌封じ寺として有名になりました。あとは統計学の問題です。多くの病人が願いに集まれば、病気が直ったという人も増える・・迷信とはそのようなものです。
 ベテスダの池もそのようなものであったと思います。御使いが降りてきて水がかき回されたとき、たった一人だけが癒されると信じられていました。大勢の病人が我先にと待ち構えていました。水が間欠泉であったか何かの理由で動いた時に、大勢の人がいっせいに池に飛び込みます。そうすると病気が治ったと言う人が出てくるのです。しかしながら、難病と闘っている病人とその家族ならば、迷信とわかっていてもすがりたいという気持ちがわかるでしょう。4章で登場した王室の役人と同様、藁をもすがる思いなのです。望みを抱いて病人たちは水が動くのを待っていました。待つ人生は消極的なものですが、彼らにとっては待つ事しかできなかったのです。

二、病気の男

5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 そこに38年間、病気にかかっている人がいました。38年間も病気であったことを考えるなら、彼は精神的にも弱っていたことでしょう。病気にかかったときが10歳としても、すでに48歳です。最初のうちは親の必死の願いのもとにベテスダの池に連れてこられたのに、青年期も過ぎ、老年となり、失望、落胆、嘆きの毎日を送るうちに、その希望もほとんど薄れていったのではないでしょうか。ただ待つだけの人生ほどつらいものはありません。待つことが長くなれば長くなるほど、ベテスダの池は、「あわれみの家」から「失望と落胆の家」に変わっていったのです。

 その病人のそばをイエス・キリストが通りかかられ、彼の病気が長い間のことなのを知って彼にことばをかけられました。
 『よくなりたいか』---病気で苦しむ人に対してはなんとも失礼なことばでしょう。無神経で残酷なことばです。「あたりまえだ!」と普通なら怒鳴られても仕方のないことばです。しかし、イエス様はあえてこのことばをかけられました。それはこの病人の心の中を見抜いておられたからでしょう。彼の心は肉体と同様に病んでしまい、麻痺していました。だからこそイエス様は、「よくなりたいという願いを本当に持っているのか?」と問われているのです。

 ※私たちの生活の中でも、このようなことがあるでしょう。若いときは自分の人生に夢や希望を持っていたのに、歳を重ねて、なにも変わらず、何も達成できずにあきらめかけている。最初は熱烈な祈りだったのに、現状は一向に変わらず、無理だと思いながらも神様に祈っている。信仰を持った当時は、イエス様の福音を宣べ伝えようと熱心だったが、自分の生活で忙しかったり、他の人々の無関心によって熱が冷めてしまった、等々。おそらく多くのクリスチャンの方々も心当たりがあるでしょう。だから、イエス様のこの問いかけは私たちの心に痛いほど響いてくるのです。

 質問された男の答えは、「よくなりたいです」ではなく、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。誰も助けてくれない、他の人が先に入ってしまう、と、なんともすさんだ心の状態を示しているのです。自分の不幸を人のせいにしている・・そこには、周りの人々に対する憎しみ、うらみ、ねたみが見えてきます。これは長い闘病生活によってむしばまれた人間の愚痴と利己心の表われと言えるでしょう。同時にそれは、神様から離れた人の心をも表しているのです。

三、主イエスのしるし

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

 この男が身体も心も病んでしまっているのを知られ、イエス様は、『起きて、床を取り上げて歩きなさい』と命じられます。すると、すぐさま男は癒されました。男は38年ぶりに歩くことができるようになりました。
 ※38年間と言わず、1カ月でも病気で伏せっていた人なら分かるでしょうが、病気が治っても、通常はすぐに歩くことはできません。リハビリの期間が必要です。しかしこの病人はすぐに歩けたのです。それも床を取り上げて歩きました。ここで分かるのは、イエス様のいやしは、ただ病気が直っただけではなく、男がすぐに生活できるほどに全く回復されたのです。超自然の完全な癒しです。神様のなさることには中途半端はありません。神のことばはいつも完全なのです。
 旧約聖書で、イスラエルの民をモーセが率いて紅海を渡るシーンがあります。そのときには海の水が両側にせき立ってイスラエルはその水の壁の間を渡って行ったのですが、その道はぬかるんだ道ではなく乾いた道でした。神様は水を完全に干上がらせたのです。これらの事は、私たちに与えられた救いが完全であることを証明します。イエス様が十字架に架けられて私たちの罪を背負い死なれました。その贖いによって私達の罪がゆるされたと聖書は約束していますが、罪を赦されたと言うときに、それは完全に赦されたのです。ほとんど赦すのではなく、すべての罪を赦されたのです。99パーセントでなく、100パーセントの赦しです。昨日までの罪だけではなく将来の罪もすべてです。だから私たちは永遠のいのちをいただいており、天国に入ることが出来るのです。

 38年間、病気だった男は、イエス様のことばによって完全に癒されました。どれほどの喜びと驚きだったでしょうか。38年間です。その間の悩み苦しみがすべて払拭され、天と地がひっくり返ったような感激を味わったことでしょう。

四、新しい人生

5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
 その後、もう一度この男にイエス様は会われ、ことばをかけられました。それまでの希望のない生活の中で、彼の心は荒んでしまい、人を呪ったり、恨んだりして心まで病んでいました。それゆえ彼の身体だけでなく、心がいやされることをイエス様は願われたのです。「もう罪を犯してはなりません。」と。たしかにイエス様は彼の病んだ身体を完全に癒されました。しかし彼の心まで一瞬で清く変えることはされません。それは神様のされることではなく、私たちが変えなければならない領域だからです。

 福音の真理についても同じことが言えます。イエス様の十字架の贖いを信じることによって犯したすべての罪は赦されます。しかし本当に大切なことは、罪を赦された後にどのような生き方をするかなのです。罪を赦された者として光の中を歩むことが大切です。キリスト教という枠の中で規則に従って生きるのではなく、神様に愛されている者として、喜びと感謝を持って生きていくのです。

 あなたの子どもが泥遊びをするとします。服がどろどろに汚れてしまっても仕方ないと諦めるでしょう。子どもを家に連れて帰り、お風呂に入れて泥を落とし、洗濯したきれいな服を着せます。しかし、服を着た途端に子どもがまた泥遊びの場所へ飛び出し、再び泥だらけになったとしたなら、どうでしょう?あなたはカンカンになって子どもをしかりつけるはずです。同じように、神様が大きな苦しみを持ってひとり子イエス・キリストを十字架につけ、あなたの罪を洗い去ってくださったのに、罪の生活に戻ってしまい、あなたの衣を再び泥だらけにするのは愚かな事です。神様は私たちを救いに導かれただけでなく、救われた後の私たちのことを見守り、喜びに満たされた生涯を送ることを願っておられるのです。

 神さまの恵みはなんと素晴らしいのでしょう。イエス様は、この病人を癒され、その歩みを感謝と喜びで満たそうとされました。誰でもイエス・キリストに出会い、イエス・キリストのことばによって生まれ変わることが出来ます。それはキリストにある新しい人生です。