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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書 5章15-29節「死からいのちに移る」(安息日について)


1.ベテスダの池

 ヨハネによる福音書に記されているイエス・キリストの第3番目のしるしは、ベテスダの池において38年間、病気を患っていた男を癒された奇跡でした。ベテスダとは、『あわれみの家』という意味です。長い闘病生活のゆえに愚痴ばかりの人生、人を恨やむ人生、嘆きばかりの人生になっていた男をイエス・キリストは癒され、立ち上がらせてくださいました。それは消えかけていた望みが叶えられた瞬間であり、神様のあわれみの現われでした。キリストが彼に再び会った時に、「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません」と告げられました。それはキリストにある新しい人生を歩みなさいというメッセージでした。
 しかしこの出来事を通し、二つの理由でイエス・キリストはユダヤ人たちから迫害されるようになりました。ひとつはイエス・キリストが安息日の規定を破ったとして。そしてもう一つは、イエス・キリストが自分を神と等しい者とした、という理由で憎まれるようになりました。

2.迫害の理由・安息日

5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

 イエス・キリストが病人を癒されたのは安息日でした。安息日とは、神様がイスラエル民族に命じ、すべての仕事を休まなければならないと定められた日です。
出エジプト記20:8-11 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
 その安息日にイエス・キリストが病人を癒されたので、治療行為、医療行為を行ったとして非難されたのです。そんな馬鹿なことが・・と私たちは思いますが、ユダヤ人にとって安息日は労働を休む日として当時も現在も厳守されているので、彼らにとってイエス・キリストの行為は見過ごしにできる事ではありませんでした。
 ※安息日は金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わります。ヘブライ語で「シャバット」と呼ばれ、ユダヤ人たちは、「シャバット・シャローム」と言って挨拶を交わします。現在でも保守派の人々は、聖書に書かれていない事細かい規定を加えて安息日を守っています。安息日にはいっさい労働は禁止で、主婦は家事、洗濯、炊事も出来ません。ですから食事は金曜日の日中に作り置きしておきます。電化製品のスイッチを押すことも禁止ですから、テレビやラジオをつけたり消したりできません。どうしてもテレビを見たい人は安息日が始まる前からつけっぱなしにしておくそうです。(最近は番組予約録画です!) エレベーターもボタンスイッチを押せませんから各階に止まるように自動運転に切り替わります。電話も使えません。運転もしません。火を使えないので、タバコも吸いません。シャワーも浴びません。運動、スポーツもだめです。保守派と改革派の温度差はかなりあるようですが、いまだにそのような規定に多くのユダヤ人が従って生活しています。私たちが考える以上にユダヤ人にとって安息日の規定は重い事なのです。

 ユダヤ人たちは、イエス・キリストが安息日にベテスダの池で病人を癒されたことを、神の奇跡だと喜ぶどころか、「安息日を犯している」と非難しました。また、イエス・キリストが癒された男に「床を取り上げて歩きなさい」と命じて、男が床を取り上げたこともまた安息日の規定を破ったと非難したのです。規定に縛られ続けているとそれが当たり前になって、正しい判断が出来なくなってしまうものです。安息日の戒めについてイエス様が反論されている箇所があります。
マルコ2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
2:26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
2:28 人の子は安息日にも主です。」
 ここでイエス様は安息日の正しい意味を教えておられます。安息日は人間のために定められたのだと。神様が六日間の創造のわざを終えて七日目に休まれたことから、七日目を記念日とし、安息日として制定されました。それは私たち人間が神様によって造られた者であることを覚えるためです。そして仕事を休み、霊肉とも満たされて生活できるようにと神様が人間のために定められたのです。人間には休みが必要です。労働を休むことによって身体の疲れを取ることが出来ます。そして神様を礼拝することによって、神様の愛と恵みの中で霊と魂の休みを得る事ができるのです。

 ところで、安息日が土曜日なら、教会はなぜ日曜日に礼拝を持つのかと疑問に思われるでしょう。それは難しい質問です。聖書の中には「日曜日に休みなさい」とはどこにも命じられていません。しかし、教会が日曜日に礼拝を持つようになったのにはいくつかの根拠があります。

@新しい記念日として
 救い主イエス・キリストが日曜日の朝に墓からよみがえられたからです。
ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
 また、その次の日曜日にも弟子たちの前に現れてくださいました。
ヨハネ20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
 さらに教会時代の奥義である聖霊が与えられたのが50日後の五旬節の日曜日でした。(使徒2:1-4参照)
 これらの出来事から、新しい時代(教会時代=聖霊時代=異邦人時代)において記念すべき日は、週の初めの日(日曜日)であると考えるのです。

A律法の下にいない
 旧約時代におけるイスラエルには律法が与えられ、安息日(土曜日)を覚えてこれを聖なる日とせよと命じられましたが、新約時代のクリスチャンには律法は命じられていません。使徒パウロは彼が書いた書簡の中で、クリスチャンは律法の下にいないことを強調しています。
ローマ 6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
ローマ 7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

B日曜日にクリスチャンが集った
 また、新約聖書中、献金を日曜日に献げることや、主の晩餐(聖餐式)のために日曜日に弟子たちが集まったことなどが記録されています。
使徒20:7 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
Tコリント16:2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

 聖書中には日曜日が安息日に取って代わったという教えはありません。しかし考え方を変えるなら、聖書に書かれていないことは「キリストの恵み」であると思います。もしも「日曜日にクリスチャンは主のよみがえりを記念して教会に集まりなさい」と聖書に明記されていたとしたらどうでしょう?それは旧約の律法と変わらないものとなってしまいます。日曜日にはクリスチャンは何が何でも仕事を休み、礼拝に出席しなければなりません。日曜日には旅行もスポーツも出来なくなります。また、電化製品のスイッチを押してはいけない、炊事洗濯もできない・・・となってしまうでしょう。そういう規定に必ず縛られてしまう事になります。そこには律法主義という古い教えはあっても、新約の契約ではありません。キリスト者が教会に集う理由は、強いられてではなく、自発的に主をほめたたえるためです。イエス・キリストの十字架の死とよみがえりを信じ、罪赦されたことを感謝して集うのです。心から主を礼拝したい、主の御言葉の説き明かしを聞きたい、交わりを持って励まし合いたい、心から主に賛美をささげたい・・・・そういう人たちが集まるところ、それがエクレシア、教会なのです。
ローマ7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

3.迫害の理由・自分を神と等しくした

5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

 話を戻しますが、安息日に病人を癒したことを非難されたとき、イエス様は次のように語られました。
5:17 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
 神様は天地を六日間で創造され、七日目に休まれましたが、休みっぱなしでおられるのではありません。造られたすべてのものを保持し、管理し、そして私達の救いのために働いておられるのです。ですから父なる神のみもとから来られた御子イエスも働いておられるのだと語られました。安息日であっても父なる神と御子キリストは働いておられるのです。

 しかしこのイエス様のことばが、ユダヤ人からの迫害を招く原因となりました。
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
 イエス様が創造主である神を父と呼び、御自分を神と等しくしたからです。それは神への冒涜だと受け取られました。確かにそれはもっともな事だったでしょう。もし、私たちの周りでイエス様と同じようなことを言う人がいたら、警戒すべきです。「私は父なる神と一つです」「私は父なる神から遣わされました。私の言葉を信じてください」・・そういう人がいたら要注意です。韓国には教会がたくさんありますが、異端も増えていて「私はキリストの生まれ変わりです」という人が次から次に出現しているそうです。そのような偽キリストの言葉を私たちは決して信じてはいけません。彼が「夢で啓示が与えられた」と言っても信じてはいけません。たとえ彼が奇跡を起こしたとしても信じてはいけません。(種も仕掛けもある手品かもしれません。) 病人を次から次に癒しても、たとえ人をよみがえらせたとしても信じてはいけません。突然、外国語を自由に話せるようになっても神の奇跡だと信じてはいけません。彼が語った預言の言葉が実現したとしても信じてはいけません。彼を信じるべきでない理由は、彼が行うわざが神のしるし(奇跡)だとする理由がないからです。世の終わりの時代に生きている私たちにとって、神様の御心は66巻の聖書にすべて示されているのであって、神のことばに付け加えることをしてはならないからです。また、神様のしるしは聖書の成立とともに与えられなくなったからです。また、彼が行なう奇跡は悪霊の働きかもしれないからです。
Uコリント11:13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
11:15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。


 そう考えると、ユダヤ人たちがイエス様を信じなかったことは、一般的に言うなら当然のことでした。しかし、ユダヤ人たちは、旧約聖書の預言を見落としていたのです。聖書で約束された救い主はただお一人です。それはベツレヘムで生まれ、ダビデの子孫で、ロバの子に乗ってエルサレルに入城されるお方です。目が見えない人の目を開け、足が不自由な人を立たせ、死人を生き返らせる事のできる方です。また人々の罪を背負い、贖いをなし、勝利と栄光を受けるお方です。それらの預言に当てはまるお方は歴史の中でただ一人しかおられません。それはイエス・キリストです。もし、ユダヤ人たちがイエス・キリストの事をよく理解しようとしていれば、彼らも信仰に導かれ救われたはずなのです。

 あなたの代わりに呪われた者となって十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げ、罪の赦しと永遠のいのちを与えることができるのは、このキリスト以外におられません。救われるために私たちに与えられている御名はイエス・キリストという御名以外にないのです。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
5:27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。