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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書5章30-47節 「キリストを証言するもの」


1.ベテスダの池

 ベテスダの池において38年間も病気で臥せっていた男を、イエス・キリストはそのことばによって癒され、立ち上がらせてくださいました。その奇跡は神の御子としてのしるしであり、この男にとっては、キリストにある新しい人生の始まりでした。前回の説教では、なぜユダヤ人がイエス・キリストの奇跡をしるしとして受け入れず、非難したのかを説明しました。それは、律法としきたりに縛られ、かたくなにそれを守っていたユダヤ人たちにとってキリストは異端者にしか見えなかったからです。そのようなユダヤ人の非難に対して、イエス・キリストは厳しい口調で真理を示されました。ご自身が神から遣わされた救い主であり、すべてのさばきを父なる神様からゆだねられており、私達のいのちはこの方にかかっていることを示されました。
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

2.証言

5:30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
5:31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。
5:32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。

 そして今日の聖書箇所では、イエスがキリストであること、つまり神から遣わされた救い主であり、父なる神様からさばきをゆだねられていることを証言するものがあると語られます。イエス・キリストは当時の裁判で用いられていた用語を使い、あたかも裁判に引き出された被告人のように、真実を明らかにするために三人の証人と、二つの証拠を法廷に提出しています。その三人の証人とは、バプテスマのヨハネ父なる神様モーセです。そして、二つの証拠とは、行なわれたわざ聖書です。
 ※裁判において証人を立てることは簡単なことではありません。被告人の親しい友人や家族でしたら被告人の肩を持ち、嘘の証言をしてしまうことがあります。また人によっては自分の立場を守るために虚偽の証言をしたり、お金で買収される人もいます。ですから法廷に立つ証人は、社会的に、倫理的にどのような人であるかが重要な要素となります。聖書では、証言人の数については二人か三人の証言によって真実が明らかになると書かれていますが、日本での実際の裁判ではどうなっているかを調べました。人証調べをした事件(実際は,欠席事件等人証調べをしない事件も多数存在します。)では,平均人証数は,昭和53年から平成5年まで,3.6人から2.7人まで徐々に減少し,以後平成6年から平成16年まで,ほぼ2.7人で一貫しています。ですから三人の証人と二つの証拠を提示されたイエス・キリストの対応は現在でも理にかなっていると言えます。

 @最初の証人はバプテスマのヨハネです。
 バプテスマのヨハネは、当時のユダヤ人たちに熱狂的に支持され受け入れられた預言者でした。ヨハネによる福音書中、何度も登場している人です。バプテスマのヨハネは真理を語り、人にへつらわない、優れた人でした。彼の説教によってエルサレムをはじめとしてユダヤ全土、ヨルダン川沿いのほとんどの人が罪を悔い改めて、彼のところへ出て来てバプテスマを受けました。イエス・キリストは、このバプテスマのヨハネが御自分の事を証言していると語られました。裁判の証人としては、最高の証人です。ではバプテスマのヨハネはなんと証言したのでしょうか。彼はイエス・キリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」1:29、と証言しました。また「この方が神の子である」1:34、とも証言しています。

 バプテスマのヨハネほど真実な証人はいないのですが、イエス・キリストは、その証言よりももっとすぐれた証言があると言われました。
5:33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
5:34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
5:35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。

 「わたしが行なっているわざが証言している」とイエス・キリストは語られました。イエス様が行われた病人の癒しのしるしは、人間には出来ないことです。それは天におられる父のみもとから遣わされたお方だから出来ることです。また14章でも次のように言っておられます。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
 イエス・キリストが行なわれたわざ(奇跡、しるし)は、一般的に言うなら証言というより「一つ目の証拠」です。

 A二人目の証人は父なる神様です。
5:37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
5:38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。

 父なる神が証言しておられるのに、それをあなたがたは聞こうとしない、信じようとしないと彼らを責められました。
 その証拠としてイエス・キリストは二つ目の証拠を提出しています。それは聖書です。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 聖書(ここでは旧約聖書)を調べれば、父なる神がイエス・キリストについて証言されていることが分かるのです。

 B三人目の証人はモーセです。
5:46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

 ユダヤ人が最も信頼しているモーセもまた、イエス・キリストについて証言しているのだと宣言されました。

3.証言を受け入れない理由

 「これほど確実な証言と証拠が揃っているのに、あなたがたはわたしを信じようとしない!」とイエス・キリストは被告人と告発人の立場を逆転させて、ユダヤ人たちを責められます。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。
5:42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。
5:43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
5:44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。


 彼らの不信仰の理由は、神からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めているからだと非難されました。また、神の愛を求めるのではなく、人の愛を求めている、と厳しく責められました。これが人間が神様を信じようとしない理由です。常に人に褒められる事を私たちは目標にします。子どものころは親に褒められたい。学校へ行くようになると、先生に褒められたいと思い、社会に出ると周りの人々に褒められたいと思います。自分のやってきたことが認められ表彰されるときに大喜びします。その働きを国が認めて叙勲を頂くことは大きな誉れです。もちろん、人から栄誉を与えられることは決して悪いことではありません。しかし、イエス様がここで教えておられることは、人の栄誉は求めても、神からの栄誉を求めていないことが問題だというのです。人からの栄誉よりも神からの栄誉を求めることの方が大切だと教えておられるのです。特に私たち日本人は、優先順位ということを考えると、神様のことはいつも後回しにしてしまいます。信仰より生活が大切。生活が成り立つなら信仰してもいいし教会へ行ってもいい。しかし生活が成り立たないなら信仰や教会どころではない、と多くの人は考えます。また、周りの人の目を気にして信仰を考えます。人からの栄誉だけを求めているからです。そのため、どれほど聖書の証拠や証言があっても、忙しい忙しいといってキリストを後回しにするのです。

4.神の栄誉を求める生き方

 ではどうしたら神様の栄誉を求める生き方が出来るでしょうか?・・・難しいことではありません。神のひとり子として来られたイエス・キリストのことばに耳を傾け、イエス・キリストに倣うのです。キリストは父なる神様の御心を知り、御心に従って歩まれました。そして私達の罪のゆるしのために自らを犠牲にして十字架に架かられました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」と迫害する者の救いのために祈られました。教会を愛し、教会のためにご自身をお捨てになりました。そのイエス様に倣うことが神様の栄誉を求める生き方です。
 また、愛することについても同じことが言えます。十字架上で示されたイエス様の愛を忘れないようにしてください。聖書は真実の愛について次のように教えています。
Tコリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 私たちはあまりにも人の栄誉や人の愛を求めすぎて、自分がそれにふさわしい者でないことを知る時に愕然とし、希望を失ってしまうことがあります。期待に応えられないからです。自分が愛のない人間だと気づき、罪人であることを知るからです。しかしキリストの十字架に目を向けるなら、今の自分がどんなにどん底であっても、救いがあります。罪のゆるしがあります。神様の祝福と励ましを頂くことによって立ち上がることが出来ます。キリストに倣い、神様の栄誉を求める生き方をはじめていきましょう。