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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書 6章41-59節「天から下ってきたパン」

一、いのちのパン

 五千人の給食に始まったイエス様の教えが続きます。人が生きていくうえで必要なパンの話から、永遠のいのちについて話を進められました。食事をとることは私たちが生きていくうえで必要不可欠のことです。お腹がすくので食事をします。栄養を取るために食事をするという人もあれば、一家団欒の時として、食事を楽しむ人もいます。また友人と食事を一緒にすることは楽しいことです。食べることが何よりの楽しみという人もいます。食事のとり方はいろいろでも、生きるためには必要なことです。
 イエス様が「わたしがいのちのパンです」と言われたのは、イエス・キリストがあなたにとって無くてはならないお方であることを示しています。あなたの生活に活力を与え、目を輝かさせ、喜びを与えられるお方です。「いのちのパン」とは、彼を通して永遠のいのちを持ち、死んだ後によみがえって天国で生き続けることを約束されています。そして「わたしは天から下ってきたパンです」とは、父なる神から遣わされた救い主であることを示しています。
 

しかし、イエス・キリストの教えに群衆はつぶやきました。
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
6:46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
 人々はイエスのことを幼い時から知っていて、イエスの両親も知っている・・どうして天から降りてきたなどと言うのか?嘘っぱちではないか?といぶかるのです。群衆に主イエスは再び語られます。「わたしはいのちのパンです」「わたしは天から下ってきた生けるパンです」と。そして「これを食べなさい」と。

二、人の子の肉を食べ、その血を飲む

 群衆にとって最も大きなつまづきとなったのは、次のことばです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「
まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます
。」
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

 誰が聞いてもゾッとしてしまう言葉でしょう。この箇所だけを読んで聞かされるなら、だれもがキリストにつまづくはずです。特にイスラエルの人達にとっては背筋が凍るようなことばでした。旧約聖書の律法では、血を飲むことを完全に禁止しているからです。
申命記 12:23 ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。
 血を飲むことは死に値する罪なのです。さらにイエス様が語られた場所は、毎週律法の書が読まれているユダヤ教の会堂でしたからなおさらです。イエスのことばを聞いた途端に、いっせいに人々が反発したことは当然でした。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
 もちろん、それは誤解によるものでした。しかしこの誤解はなかなか解けない誤解でした。事実、このイエス様の教えによって、初代教会時代からキリスト教は血と肉を食べる宗教として嫌悪されたのです。日本にキリスト教が伝わったときにも、同じようにキリスト教を耶蘇教と呼び、血を飲む恐ろしい宗教として非難されました。

 カトリックの神父で1921年に長崎県佐世保市に生れ、2001年に亡くなられた金松さんが、その著書でご自分の子供のころのエピソードを記されています。
≪私は十人兄弟の九番目に生まれました。母は、子供たちを遊園地やその他、子供たちの好きそうな所には、どこにも連れて行ってはくれませんでした。しかし、日曜日のミサには、欠かさず連れて行ってくれました。小学生時代の私の生活の場所は、母の居る家と教会と小学校の三つの範囲内に限られていました。中でも母が最も大切にした所は教会でした。母は平日でも私を連れて朝の五時三十分のミサに与り、私は侍者のつとめを果たしました。
 当時、ミサはラテン語でしたから侍者は、司祭と交唱するラテン語の祈りを全部暗記しなければなりませんでした。ミサが終わって家に帰り、朝食を済ませてから学校に行きました。神様第一、教会優先でしたから、毎日曜日はもちろんのこと、守るべき祝日の昇天祭と諸聖人祭は平日であっても、学校を休んで教会に行きミサの侍者を務めました。おかげで小学校を卒業するまで、皆勤賞は一枚も貰ったことがありません。しかし、そのために成績が悪くなったとは決して思いませんでした。かえって、ミサに与ったから神様は私の知恵を照らしてくださるに違いないと思っていました。
 子供たちに向かっての父の口癖は、いつも「よか人さまになれ」ということでした。それで、「よか人さまって、どういう人……」と母に聞くと、「神父様たちのような人でしょう」という返事がかえってきました。こうして、私の心には「司祭になりたい」という憧れが、小さい時に植え付けられていったと思います。同級生たちからは、「耶蘇教だ。血を飲むそうだ。生き肝を取るそうだ」と排斥されても、むきになって大勢を向こうにまわして、孤軍奮闘、自分の宗教を護ったものでした。当時の日本は、国を挙げて排他的でしたから、同級生たちはキリスト教は外国の宗教だといってなじりました。私も負けじとばかり、「仏教だって外国から入って来たのではないか。君たちの着ている洋服やシャツはどこからか。ボタンはどこの国の言葉なのか。捨ててしまえ!、脱いでしまえ!。裸になってかかって来い!」とやりかえしたものでした。私の形勢が有利とみるや、いつの間にか味方も増えて、「金松がんばれ」と応援してくれるしまつでした。
 六年生の時、日本史の歴史の時間に、先生がキリスト教を悪く言ったものですから、同級生たちは、鬼の首を取ったように、休み時間になったとき、ドーッと私のもとに押しかけてきて大変でした。歯をくいしばってこらえました。「よか人さまの信じる宗教がなぜ悪い。先生が間違っている。よし、神学校に入って、もっと勉強して、神父になったら先生をやっつけてやる!」と意気込んだものでした。しかし、神学校に入って学び取ったものは、霊魂の救いに大切なのは、理屈ではなく、愛とゆるしということでした。≫

 金松さんの小学生時代は第ニ次大戦の少し前ですから、当時の日本でもイエス様のこの教えによってキリスト教は、血を飲み、生き肝を取る宗教だという誤解と偏見があったことがわかります。

三、「血と肉」の意味

 イエス様が、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食べなさい」と言われたときに、決して実際にそうすることを教えてはおられません。その証拠に、イエス様の生涯で、自分の肉を切り取って食べさせたり、血を注いで弟子たちに飲ませたりしたことはありません。ですから、このイエス様の教えは霊的に受け取るべきです。イエス様の肉を食べ、その血を飲むとは、なにをあらわしているのでしょうか?・・・それはイエス様と一体となることです。私達の内にキリストを取り込み、私たちの内に住まわせ、キリストと共に生きることです。
 どのようにしてそんなことが出来るのでしょうか?ーーそれは信じるということによってです。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 イエス様を信じることは、イエス様といういのちのパンをいただくことです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 信じることにより、永遠のいのちを持つことが出来ます。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
 ここでは肉を食べ、血を飲む者は永遠のいのちを持つと教えられています。つまり「肉を食べ血を飲むこと」は、「信じること」なのです。


四、最後の晩餐

 最後の晩餐の席で、パンと葡萄酒がイエス・キリストのからだと血の象徴だと説明されています。
マタイ26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 裂かれたパンはーー鞭で打たれ、十字架に釘づけにされ、槍で刺されたイエス様のからだを象徴します。葡萄酒はーー私たちの罪の赦しのために犠牲として流されたイエス・キリストの血を象徴します。その刑罰は私たちが受けなければならないはずでした。しかしイエス様が罪の赦しを与えるために身代わりとなって刑罰を受けられ、死なれたのです。
 最後の晩餐が、イスラエルの過越の祭の時に、過越の食事として持たれたことには大きな意味があります。過越の食事には二つの必要な食材があります。それは傷のない子羊の肉と、イーストを入れないパンです。これもまた救い主イエス・キリストを象徴していました。ですから、過越の祭と主の晩餐(聖餐式)には深い関わりがあるのです。

 使徒パウロの手紙では、この主の晩餐を記念として教会で行いなさいと命じています。
Tコリント11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 もともと主の晩餐は主イエス・キリストの裂かれたからだと流された血を覚えて行う夕食会であったようです。それは過越の食事に代わるものでした。
 しかし、コリントの教会では教会員が増えてきて、お腹を空かせた人たちもたくさん集っていました。ある人たちは主の晩餐のために用意されたパンを我先にと食べるようになり、後で来た人たちの分が無くなってしまいました。また、葡萄酒で酔っぱらってしまう人たちもいたというのです。ですからパウロは、ただ食事のためなら家で食べてきなさい、と彼らを指導しています。教会は格安で食事の出るレストランではありません。ですから現在のように多くの教会では聖餐式には少量のパンと葡萄液を口にするようにしています。そして、聖餐式の意味と秩序を保つために、聖餐式にあずかるのは教会員だけと定めている教会も多くあります。

 カトリック教会では聖餐式と言わず聖体拝領と呼びます。聖いイエス様の体にあずかる儀式という意味です。カトリックでは聖体拝領の時に、司祭が行なう聖別の行為を通してパンと葡萄酒は実質変化し、キリストの体と血に変わると教えています。ですから神父はキリストの体となったパンを落とさないように気を付けなければなりません。信者の舌の上に直接パンを載せて与え、(最近では手の上に載せているようです)そして侍者が信者の顎の下にお皿を置いてあやまって落とした時に受け取れるようにします。葡萄酒は通常のミサでは危険ということで行わないところが多いようです。
 カトリック教会の解釈は、さまざまな疑問をさらに引き起こします。残ったパンにカビが生えたらどうなるのか?落としたパンを鼠がかじったら、鼠もキリストと一体になるのか?こぼれた葡萄酒を踏みつけてしまったら?・・・正しく解釈しないと混乱をもたらします。イエス様が霊的なこととして語られているのですから、それを字義通りに受け取ってしまってはいけません。(その反対もあります。イエス様が真実として語られていることを霊的に解釈してしまうことも多くの混乱を引き起こします。)

 なぜ、イエス様はあえて人々が混乱するようなことばを語られたのかと疑問に思います。その答えを完全に理解するのは無理でしょうが、次の一節は光を与えてくれます。
マタイ13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

 そこには神の救いを求め、真理を求めてくる人には理解できるように。敵対し高慢な態度でくる人には真理が理解できないようにされているのです。自分の弱さと罪を認め、救いを求めて主のもとに来るときに、神様の救いを頂くことができるのです。それもまた神様の知恵によるのです。
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