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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書7章1-24節 「信仰と不信仰@」


1.ガリラヤ伝道の終わり


 イエス・キリストのご生涯を学んでいくことは、キリスト者にとって大切なことです。キリストのご生涯を詳しく知らないなら、「私はキリスト者です。」と胸を張って言うことが出来ません。福音書からの説教は、準備する説教者にとっても、教えられることの多い感謝に満ちた学びでもあります。
7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
 ヨハネによる福音書6章の最後がイエス様のガリラヤ伝道の終わりでした。イエス様が最初に伝道の拠点とされたのがガリラヤでした。お生まれになった場所はエルサレムに近いベツレヘムでしたが、彼が育ったのはガリラヤのナザレと言う町でした。ですからガリラヤはイエス様にとって故郷であり、自分の家族や親戚、友人等が住む場所でした。カナ、カペナウム、ナイン、マグダラなどの町々がありました。ガリラヤは田舎であり、「ガリラヤから何の良いものが取れようか」と、ことわざのように言われていたことを考えると、まさにドがつく田舎でした。イエス様はガリラヤのカナで最初のしるしを行なわれました。水をぶどう酒に変えるしるしです。そしてガリラヤを行き巡り、多くの病人を癒し、人々を苦しめていた悪霊を追い出し、五千人の給食、四千人の給食で人々の必要を満たされました。湖の上を歩かれ、大暴風を静められて神の子としての力を示されました。また、十二弟子を選ばれ、使徒という名前を与えて共に宣教されました。山上の垂訓もまたこのガリラヤ伝道の中に含まれます。

 旧約聖書のイザヤ書にはこれらの事が預言されていました。
イザヤ9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 イザヤ9章6-7節まで読むと、まさにメシア預言の箇所であることが分かります。ガリラヤでの宣教の結果、イエス・キリストの名声は首都エルサレムまで届き、多くの人々のうわさ、関心事となっていました。前回の学びでは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」と語られたことに対して、多くの弟子たちがその意味を理解せず、離れていったというところを学びました。「約束のメシアだ」と言う人、「神の使いだ、バプテスマのヨハネが生き返ったのだ、預言者エリヤの再来だ」と受け入れる人もいましたが、「悪霊に憑かれているのだ」「神を冒涜するものだ」と非難し、殺害しようとする人たちも出てきました。

2.兄弟たちの不信仰

 今日の聖書箇所では、イエス様の兄弟たちが登場します。イエス様が聖霊によって誕生された後、マリヤとヨセフの間に生まれた子どもたちですから、弟たちになります。その弟たちでも兄イエスのことをキリストだと信じていなかったと聖書は記しています。
 ※余談ですが、この「兄弟たち」という言葉が問題とされます。ユダヤ教では、同じ国、つまりイスラエル人や同じユダヤ教の人にたいして「兄弟」と呼ぶ慣習があるので、母マリヤを永遠の処女として祈りの対象とするカトリック教会などでは、「兄弟たち」をイエスの実の弟たちではなく、故郷のいとこたちであっただろうと教えています。しかし、それは「マリヤは永遠の処女であるべき」という教理を前提として聖書解釈をしていますから、正しい解釈と言えません。マリヤとヨセフは結婚して夫婦となり家庭を築いたのですから、文字通りにイエス様の弟たちと解釈することが自然でしょう。

 3-5節で弟たちは兄イエスにアドバイスをします。
7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
 弟たちもまた、兄イエスのしるしを見た証人であったでしょう。そのわざに驚き、どうして兄がこのような力を持つようになったか不思議に思っていたのでしょう。しかし、一緒に育ってきた兄がメシアだとは信じれなかったのです。それでも兄イエスの伝道に魅かれる所もあり、「隠れていないで、祭りの時に多くの人たちにしるしを見せて自分を世に現わしなさい」とアドバイスしたのです。弟たちへのイエス様のことばは、6-8節です。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。
7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

 人間的な事しか考えられない弟たちと、父なる神様の御心に従って歩まれている兄イエスの違いが示されています。神様のご計画を知る人と知らない人では、その生き方は全く異なるのです。

3.わたしの時

 注目したいのは、「わたしの時はまだ来ていません」と言うことばです。ヨハネによる福音書では、「時」と言うことばが大切なキーワードとして幾度も用いられています。カナでの婚礼時に、母マリヤがイエス様に「ぶどう酒がありません」と言ったとき、イエス様は「女の方、わたしの時はまだ来ていません」とお答えになりました。また次の箇所にも用いられています。
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。  他にも多くの箇所で「時」が用いられています。


 ここでイエス様が、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたその「時」とは、明らかに十字架に架けられて、私たちが受けなければならない罪の刑罰を背負い、身代わりとなって血を流し死なれる「時」です。罪の中で苦しみ、地獄へ向かっている私たちに救いの道を備えられる「時」です。そしてこの「時」こそイエス様が天での御位を捨ててまでこの地上に来られた目的であり、父なる神様の御心でした。

 では、なぜすぐにエルサレムに上り、十字架に向かわれなかったのでしょうか?ユダヤ人たちがご自分を殺そうとしていたことを知っておられたのですから、すぐにでも可能であったのではないでしょうか?・・・もちろん十字架に架けられることだけを考えれば可能だったかもしれません。しかし、イエス様は父なる神様の御心の「時」を知っておられたのです。十字架に架かるまでに、語らなければならないことば、行なわなければならないしるしがありました。弟子たちを教え、御自身の愛を残らず示さなければなりませんでした。そしてそれは父なる神が定められた過越の祭りの「時」でなければならないことをイエス様は知っておられたのです。
7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。


 今日の聖書箇所で、イエス様は弟たちに、この仮庵の祭りの時にはエルサレムに上らない、と言われておきながら、密かに祭りへ行かれます。いわば弟たちに嘘をついたことになります。理由は分かりませんが、神様の「時」と関係があるのだと思います。伝道者3章11節には次の御言葉があります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」

 私たちはクリスチャンになってから、神様の導き、御心を求めるようになります。そうすると神様の「時」についてよく考えさせられます。その多くは「いつになったら・・」と言うものです。「いつになったら神様は私を祝福してくださるのか?」「いつになったら良い仕事が見つかるのか?」「いつになったら結婚できるのか?」・・・そんなことばかり考えると憂鬱になります。しかし、ある説教者が次のように説教しました。「神様の導きは神様の御心の中を歩んでいる時に必ず実現される」と。確かに真理です。今、神様の御心のうちを歩むことに集中するなら、今が祝福されます。今が御心の時なのです。今が祝福されるなら、いつとか、いつまでと言うことが気にならなくなるのです。

 7章6節でイエス様が「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」と語られたことに通じるのだと思います。イエス様の兄弟たちにとって、救い主を受け入れるときはいつでも出来たのです。神様の御心に従おうとするのは、明日からとか、来週から、来年からとか待たなくてもよいのです。それは今なのです。
 父なる神は言われます。
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」へブル3:15
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント 6:2


4.ユダヤ人の不信仰

7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。
7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。
7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
7:19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」
7:21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
7:22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。──ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです──それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

 仮庵の祭りにイエス様はエルサレムへ上って行かれました。そしてエルサレム神殿において人々を教え始められました。ここで議論の的となっているのは、5章においてイエス様が行われた病人のいやしでした。ベテスダの池で安息日に病人を癒されたのを見て、ユダヤ人たちはこのときも非難し、イエスを殺そうとしていたのです。
 ユダヤ人に対するイエス様の主張は、「わたしは神のみこころを行っている」という事です。その説明に割礼を一例として挙げられました。「モーセが命じた割礼は神のみこころです。それをあなたがたは安息日にも実行しています。同じように、メシアであるわたしが病人をいやすのは神のみこころです。それを安息日に行なってもよいはずです。」と弁明されたのです。

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