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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書7章25-38節 「信仰と不信仰A」

1.人々の戸惑いと疑い

7:25 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。
7:27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」


 ユダヤの人々は聖書で約束された救い主(メシア、キリスト)を待ち望んでいましたが、実際にキリストを見るのは初めてでした。しかもそのキリストはガリラヤ出身で、みすぼらしい身なりをし、今まで大工の息子として働いていたことを知っていましたから、急に『わたしはキリストです』と言われても、人々にとって信じがたいのは当然でした。ユダヤ人がいだいていたメシアのイメージは、王室で生まれて育ち、白馬にまたがり、兵士たちを引き連れて、圧倒的な力によってイスラエルをローマ帝国から解放し、ダビデの王国を再建する王でした。しかし、来られたキリストは奇蹟は行なうが、引き連れているのはガリラヤの漁師たち、ロバの子にまたがり、あまりにもみすぼらしく、彼らの理想とかけ離れていたため、受け入れることが出来なかったのです。
 私たちは初めて触れるものに対しては警戒心を持つものです。流行の最先端といわれるものには必ず多くの人たちが批判をします。人は変化を嫌うものだからです。まして新しい宗教となると誰でも警戒して当然です。イエス・キリストの教えはそれまでの律法主義とは全く違う教えでした。イエス・キリストが来られて、それまでユダヤ人がかたくなに信じていた律法主義とは違う神の福音を聞いた時に、人々は警戒しました。今まで聞いたことのない罪のゆるしと永遠のいのちの福音だったからです。「本当にこの人はキリストか?律法を守っていないではないか!悪霊の力によってしるしを行なっているのではないか?ーー」人々は戸惑い、警戒し、疑ったのです。

 もしも説教者の私がここで不思議なことをしたら、恐らく「手品でしょう」と皆さん思うでしょう。決して神の奇蹟だとは思われないはずです。恐らくヨハネはそのような私達の疑い深い性質を知って、イエス・キリストのしるしの記事を書いたときに、そのしるしを疑う人の言葉と、しるしを信じた人たちの言葉を公平に書いています。ヨハネがこの書を書いた目的は、20章31節にはっきり書いてあります。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。


2.疑いを取り除こうとされるイエス


 イエス・キリストは人々の疑いを取り除くために次のように語られました。
7:28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

 「大声を上げて」とヨハネはあえてその様子を強調しています。大声を上げるのは、何とか分かってほしい、理解してほしいと願うときでしょう。イエス様が人々に理解してほしいと願われているのです。それは何でしょうか?・・「確かにあなたがたが言っているとおり、わたしはナザレのイエスで、人間の子としてこの世に生まれました。しかしわたしは全能者である父なる神から遣わされたのです!」という事です。
 それを聞いた群集は「神から遣わされたメシアだと彼は主張している」と正しく理解しました。
7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。
7:31 群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。」
7:32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。

 人々はイエス様の主張を理解したのですが、信じたのではありません。「奴は嘘を言っている、神への冒涜だ」と判断してイエスを捕らえようとしたのです。しかし誰もイエス様を捕らえることは出来ませんでした。それは「イエスの時」がまだであったからです。不思議な力が働き、誰もイエス様に手をかけることが出来ませんでした。

3.霊的な盲目

7:33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
7:34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
7:35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
7:36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
 イエス様は、不信仰の群衆に向かってご自身のことについて預言されました。それは十字架の死を遂げた後に天に戻られるという事です。しかし人々にはそれが全く理解できませんでした。「ギリシャにでも出て行くつもりなのか?」と考えました。それは彼らが霊において盲目であったからです。目に見える生活のことに追われ、目に見えない創造者に目を留めることをしないからです。

 子どもたちが見ているTV番組を一緒に見ていると、とても不快な気分になりました。若手の人気芸人が女装をして、女性に変身して歌を歌っているのです。さらに驚いたことには、口寄せをする人を招いて口寄せをしてもらうコーナーがありました。口寄せとは、いろいろ種類がありますが、多くは死んだ人の霊を呼び出し、自分の口を通して語らせると言う降霊術の一種です。番組での口寄せは笑いを取るためのデタラメですが、霊的なことが全く分からない人にとっては、こういうことが出来るのだと信じてしまいます。冗談のつもりでやっているのですが、実は降霊術は恐ろしいものです。降霊術は、呪いにつながるもので、聖書では完全に禁止されています。
レビ 20:27 男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」
 これは悪霊と交わることなので、絶対にしてはならないことなのです。それを面白おかしく余興のひとつのようにすることは知らず知らずのうちに大きな過ちを犯すことになってしまいます。霊的なことに目が開かれていないと、悪いものにだまされてしまい、本当の神様が分かりません。救い主が来て、神の福音を教えても理解できず、どんな奇蹟を行なってもトリックとしか考えられないのです。

4.目が開かれるためには

 では、どうしたら霊的な目が開かれるのでしょうか?どうしたら私たちは本当の神様を知ることが出来るのでしょうか?――それは神様が示された方法に従うしかありません。というのは人間の経験や知識では神を知ることがないからです。神様が示された方法とは、ひとり子イエスを世に遣わし、そのみことばによって父なる神の存在と御心を示されたのです。ですから神を知る方法は、まずキリストの元へ行くことです。
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

「来て、見てください。」(Come&see!) とヨハネは福音書のなかで何度も記しました。ここでは主イエス・キリストご自身が命じられています。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 心がカラカラに乾いている人がいるでしょうか?悩み苦しんでいる人がいるでしょうか?重荷を負って押しつぶれそうな人がいるでしょうか?もしあなたがそうなら、イエス様の元に来て、そのみことばを聞いてください。聖書を読んで学んでください。その泉から汲んで飲む時に、イエス様が語られたことがあなたに必ず起こります。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 どうか霊の目を開き、神から遣わされた救い主イエス・キリストを信じてください。

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