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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書7章37-53節 「生ける水の川が流れ出る」

 イエス様が伝道を開始されたとき、人々は戸惑い疑いました。イエスはキリスト(メシア、救世主)なのか? それとも神を冒涜し、人々を惑わしているだけなのか・・・人々にはその判断が出来ませんでした。その理由は、霊的な目が開かれていなかったからです。ユダヤ人は宗教に熱心でしたが、聖書の正しい教えから逸れてしまっていたからです。霊的な目を開くためには、まずイエス様の元へ来て、その教えに耳を傾けることが大切だと前回学びました。


1.水へのこだわり
 37-38節

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 これはイエス様の招きのことばです。同じようなことばをサマリヤの女に語られています。
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 五回も結婚と離婚を繰り返し、また別の男性と同棲をしていた女性です。すさんだ生活をしていた女性に対して、イエス様は永遠のいのちの水について語られました。

 イエス様は水にこだわって話をされています。聖書全体が水にこだわっていると言っていいでしょう。イエス様が最初に行われたしるしは、水をぶどう酒に変えるものでした。また、3章5節では、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」とニコデモに語られました。旧約聖書のなかでも、清めの儀式には必ず水が必要でした。また私たちが今日行うバプテスマ式は水がなければ行なうことが出来ません。

 私も水にはこだわりがあります。朝起きてまず口にするのは、水です。寝起きに水を一杯飲むと身体に良いと聞いたので、それ以来、水を必ず飲むようにしています。浄水器を通した水にしていますが身体の中にたまった悪いものが流れていく気がします。私が唯一続けている健康法です。

 イエス様の水へのこだわりも健康のためです。ただ、それは身体の健康のためではなく、心の健康、霊的な健康のためです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたとき、イエス様はペットボトルに入っているおいしい水を持っておられたわけではありません。イエス様が持っておられたのは、あなたの心を潤すことのできる神のことばでした。たましいを生き返らせることの出来る不思議な水です。もし、あなたが身体の健康に気をつけている人なら、それ以上に心の健康に気をつけるべきです。なぜなら、どんなに気をつけていても身体はだんだんと衰えていきます。体力は衰え、物忘れが多くなり、長い友達であった髪の毛は無くなっていきます。目は老眼になり、腰はぎっくり、膝はがくがく、顔はシワシワ、話は途切れ途切れになります。でも心が健康ならがくがくシワシワの身体でも幸せです。神様に愛されている喜び、生かされている喜び、救われて罪赦されている喜び、人を愛する喜び、祈る喜び、永遠の住まいである天国に行く喜びがあります。その心の健康のために必要なものは、救い主イエス・キリストの御言葉です。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 この御言葉をイエス様は大声で人々に叫ばれました。それも多くの人々でごった返す仮庵の祭りのその最終日、祭りのクライマックスの時に、シオンの都エルサレムの神殿に立って語られました。これには大きな意味が隠されています。

2.仮庵の祭りにおける水の儀式

 まず仮庵の祭りについて学んでおきましょう。仮庵の祭りは、スコットと呼ばれ、私達の暦で9-10月頃に行われる祭りです。祭りは8日間続きます。旧約聖書が示す三大祭の一つで、もちろんイスラエルでは現在でも盛大に祝われている祭りです。三大祭は他に、ペサハと呼ばれる過越の祭と、シャブオットと呼ばれる刈り入れの祭り(七週の祭り、初穂の祭り)です。

 仮庵の祭りは、かつてイスラエルが荒野で生活したことを覚えるための祭りです。ユダヤ人の祖先がエジプトで奴隷として苦しい生活を強いられていた時代に、モーセが指導者として立てられ、エジプトから脱出します。紅海を神の奇跡によって渡り、エジプトを脱出した後、40年間シナイ半島の荒野で生活をしました。その40年間、彼らは移動できるために簡素なテント(天幕)小屋に住んだのですが、このことを記念し、祭りの際は仮小屋を建てて住むように命じられています。
レビ23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜ぶ。
23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
23:44 こうしてモーセはイスラエル人に【主】の例祭について告げた。

 現在の仮庵の祭りでも、人々が庭に仮小屋を建ててその中を飾り、食事に人々を招いて食事をする光景が見られます。

 また仮庵の祭りにはもう一つの意味があります。出エジプト記の23章16節では「収穫祭」とも呼ばれています。労苦が報われ、神様が収穫を与えてくださったことを感謝するときでもあります。ですからこの祭りは「喜び」のときで、イスラエルでは最もにぎやかな祭りとなっています。単に「祭り」と言えば、この仮庵の祭りを指すそうです。
 イエス様の時代には、祭りの期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで運び、祭壇に水を注ぐ行事が行われました。レビ人が楽器を演奏し賛美を歌いながら神殿の東門へ進み、そこから祭司やレビ人の若者たちが坂道を降りてシロアムの池へ行き、清い水を汲み上げて神殿に運び上げます。群集も後に続き、歌い、踊り、手をたたき、大歓喜の行進だったそうです。(現在ではこの儀式は行なわれていません)
 この水を祭壇に注ぐ儀式は聖書では規定がありません。しかしイスラエルの人々は先祖達が荒野で水がなくなった時に、神様が水を備えてくださった奇蹟を、祭壇に水を注ぐことによって思い起し、神様への感謝を現わしたのです。

3.出エジプトにおける水

 エジプトでの奴隷生活から脱出したイスラエルが、シナイ半島の荒野で生活したのは40年間でした。200万人近い大集団でした。とても荒野で食べて生きて行けるものではありません。水不足は死活問題でした。そのとき何が起こったかが出エジプト記と民数記に記されています。
民数記20:1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。
20:2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。
20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。
20:4 なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。
20:5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。
20:7 【主】はモーセに告げて仰せられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

 モーセが岩を打つと水が出てきました。人々はこの岩から水を飲み、いのちをながらえました。それは神様のしるしであり、神様の恵みによるものでした。このことを仮庵の祭りはあらわしているのです。
 イエス様がこの仮庵の祭りの最も盛り上がる最終日に、人々がごった返す中で大声で「生ける水の川が流れ出るようになる」と語られたのは、この出来事に注目させるためです。天の父なる神様は私たちが生きるために必要な水を備えてくださる、そしてイエス・キリストが与える水は、人の心の渇きを潤し、いやし、きよめ、満たす事を宣言されたのです。

 新約聖書で使徒パウロは驚くべき真理を書いています。
Tコリント10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 モーセが杖で打って水が流れ出した岩は、将来、来臨するキリストを現わしていたのです。岩を打ったのは、イエス・キリストがむち打たれ、十字架に釘付けにされて死なれることをあらわし、岩から水が流れて人の喉の渇きをいやしたことは、キリストの血潮の贖いによって人は罪を赦され、心の渇きをいやされ、いのちを与えられると言う福音の真理です。この福音の真理を示すために、仮庵の祭りは最高の舞台であり、主イエスは神殿で大声で叫ばれたのです。

4.生ける水の川

 キリストが与えられる水とは、神の御言葉です。その水を汲み、飲む時に喉の渇きはいやされます。それはイエス・キリストを救い主として信じるということです。その時に奇蹟が起こります。私達の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる、それはまさに御霊の働きなのです
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
 イエス・キリストを救い主と信じる時に神の霊である御霊(聖霊)が与えられると聖書は教えています。キリストを信じる時に、私たちは全く変えられます。新しい人に生まれ変わるのです。古い自分から新しい自分になります。それはただ、気持ちを新たにして生活すると言う意味ではなく、新しい目標が与えられるというのでもありません。キリストを信じる人には御霊が与えられて神の霊を宿し、新しい人に生まれ変わるのです。
 この御霊が与えられることによって、たくさんの祝福をいただきます。そしてその祝福は自分だけに留まらず、他の人々にも与えられていきます。生ける水の川が流れ出るようになるのです。ヨハネはこの聖霊について、この後たくさんの記事を残しています。それほど聖霊の働きは信じる私たちにとって驚くべき祝福なのです。
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7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。

 イエス様の招きのことばを聞いても、多くの群衆は心を閉ざしたままでした。特に民の指導者たちは受け入れませんでした。その原因の一つは、イエスがガリラヤ生まれだと思われていたからでした。「救い主はベツレヘムで生まれる」という聖書の預言を信じていた人々は、ガリラヤから預言者(ここでは救世主)は起こらないと理解していたため、ガリラヤ出身のイエスはキリストではないと考えたのです。しかしそれは誤解によるものでした。調べるなら、イエスがベツレヘム生まれであることがすぐに分かったはずです。しかし、イエス様自身もそのことについて弁明されていません。たとえ弁明されたとしても、疑う人は何をもってしても疑ったことでしょう。

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