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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書8章21-36節 「真理はあなたがたを自由にします」



 前回の学びは、姦淫の現場で捕らえられた女性の話でした。律法学者、パリサイ人等がイエス・キリストを逮捕する理由を得るために仕組んだ罠でした。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
 それに対し、イエス様はたった一言「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。それは他人を指差し、人の罪を裁いてばかりいた人たちに、その指を自分に向けさせ、誰もが罪びとであることを認めさせることばでした。

1.本当の正体

 今日の聖書箇所でも、パリサイ人たちがイエス様に続けて質問をしています。彼らにはイエス・キリストの教えが理解できなかったからです。確かに抽象的な主イエスのことばが続いています。鈍感な人は遠まわしに物事を言われると、何を言おうとしているのか気づかないときがあるので、イエス様がもっとはっきりと説明されれば良いのにと思います。しかしこの聖書箇所を読んでいくと、あえてイエス様は彼らに対して分かりにくく答えておられます。しかし、ほかの箇所では弟子たちに対して分かりやすく話しておられます。その目的は、高慢な思いを持って神のことばを聞こうとする人々には真理を隠し、神様の前にへりくだる人々には真理を明らかにするためです。(マタイ13:2参照) そうすることによって、本当の信仰者と形だけの信仰者を分けられるのです。パリサイ人等は宗教の指導者でしたが、その正体は見せかけだけの信仰者だったのです。

 23-24節のイエス様のことばも、信仰を持って聞かなければ理解できません。
8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

 24節の「わたしのことを」と訳されているのは、ギリシャ語の「エゴーエイミー」です。「わたしはある、という者」――それは旧約で語られた全能の主の名前でした。イエス様はここでご自身が天から来られた救い主であり、全能の主と同一であると教えられています。だから信じない人は自分の罪の中で死ぬと宣言されているのです。
 しかし信仰を持って聞こうとしないパリサイ人たちにはその意味が分かりません。「あなたは誰ですか?」・・おそらく「自分を何様だと思っているのか?おまえの正体は何者だ?」という批判的な思いからの質問でしょう。イエス様も負けてはおられません。
8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。

 とやり返されます。確かにこれまでに幾度も御自身が、天から下ってきたこと、神の子であり、罪のゆるしを与える権威を持っていること、を語られてきたのです。ただ、それを彼らは信じなかっただけなのです。
8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。


2.本当の弟子

8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」
8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。

 30節には「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」とあります。通常なら「人々が救われた、ハレルヤ!」と喜ぶ場面でしょう。信じた人たちに祝福のことばのひとつもあってよい場面です。しかしその信じた人々に対してイエス様は厳しいことばを語られています。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。
 祝福どころか、のろいの言葉のようです。それは彼らが信じたのは表面的なことだけであり、薄っぺらい信仰であったからです。そこでキリストの本当の弟子とはどういう人なのかを教えられます。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 本当の弟子とは、イエス・キリストのことばにとどまる人です。この「とどまる」という語は、「メノー」というギリシャ語で、「滞在する、住みつく」という意味があります。(ヨハネ1:35参照)また、葡萄のたとえで(ヨハネ15:4参照)ぶどうがしっかり枝に「つながる」という言葉と同じ語です。ですからイエス様の本当の弟子になるということは、イエス・キリストのことばにしっかりとつながり、そこに住み続けることです。一度信じたなら、もうそれでよいのではありません。絶えず学び続け、自分の内側にしっかりと御言葉から栄養をいただき続ける人です。クリスチャンの皆さんは是非そのようにしてイエス様の弟子になっていただきたいと願います。福音を信じて、教会に毎週来ている、献金もしているーーでもそれだけではここに登場するパリサイ人たちと同じかもしれません。あなたの日々の生活の中で聖書のことばが生かされているでしょうか?御言葉によって養われていくためには日々のディボーションが大切です。御言葉を読んで神様の御声を聞き、祈りにより神様に話します。「朝の10分があなたを変える」と、ひとりの敬虔な牧師が祈りについて書いておられました。朝起きて5分間祈り、5分間御言葉を読む。それだけであなたの信仰者としての歩みが変わるのです。

3.本当の自由

8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 イエス様の御言葉にしっかりつながっていく時に、私たちは本当の自由を味わうことが出来ます。32節「真理はあなたがたを自由にします」とイエス様は語られました。私たちが住んでいる日本は自由があっていい国だと思います。植民地でもなく、王様に支配されている国でもなく、言論の自由があり、人権が守られている国です。奴隷制度はこの国では考えられません。ここに登場するユダヤ人と同じように「わたしたちは誰の奴隷になったこともありません」と胸を張って言うことができるでしょう。しかしイエス様は、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と教えられました。環境の自由のことではなく、霊的な自由のことを語られています。そしてこの霊的な自由こそ私たちに一番必要なものなのです。


 戦場カメラマンの渡辺陽一さんがマスコミに取り上げられて、紛争状態にある国の中で生活している人たちの写真が映し出されました。それを見るたび、ひどい環境の中で生活している人たちをかわいそうに思い、何とか助ける方法がないのかと考えさせられます。しかしその環境を変える事は難しいことです。「世界人類がみな平和でありますように!」という祈りはいつも泥沼の現実にかき消されてしまいます。人の心の中に、欲望や高慢、憎しみやねたみがある限り、争いは絶えることがないからです。そして汚い心、罪を抱えた私たちは、死んだあとに裁かれ刑罰を受けなければならないと神のことばである聖書は警告しています。誰一人、そのさばきから逃れることは出来ません。なぜなら私たち人間は皆、罪の奴隷だからです。

 イエス・キリストは罪の奴隷となって苦しんでいる私たちを救うために天からこの世に来てくださいました。手と足に釘を打ち付けられ十字架に張り付けにされ、激しい痛み、苦しみを耐え忍ばれました。それは私たちが受けなければならない罪の刑罰でした。しかしキリストは身代わりとなって苦しまれ、いのちまで捧げて罪の代価を支払ってくださいました。神はこのキリストを墓の中から三日目によみがえらせることによって、この方が本当の救い主であることを証明されました。このキリストによって私たちに罪の赦しが与えられているのです。キリストを信じる時に私たちは罪の奴隷から解放され、本当の自由を与えられます。この自由こそ、神が私たちに与えようとしている永遠の自由なのです。

 使徒パウロは、神から与えられているキリスト者の自由について次のように書きました。
ローマ8:35-39
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 パウロの宣教活動は決して楽なものではありませんでした。迫害に次ぐ迫害、飢え渇きを味わい、鞭打たれ、つるぎで脅され、死にかけたことが幾度もありました。しかし、彼はキリストの奴隷となっていやいやながら宣教したのではありません。常に自由を確信し、喜びにあふれ、感謝しつつ宣教したのです。
 私はクリスチャンになる前は、宗教を毛嫌いしていました。宗教に縛られ、お金も巻き上げられ、洗脳されて「神さま〜、神さま〜」と頼り、まともな生活ができなくなってしまうーー関わりたくないと思っていました。けれど、「真理はあなたがたを自由にします」というイエス様のことばが今はよく分かります。人は誰もが自由を望んでいますが、実は環境に縛られ、自分の心の罪に縛られて生活しています。自分の弱さを嘆き、そして自分の罪のために悩み、苦しむのです。

 しかし、イエス・キリストが身代わりとなって死なれ、よみがえられた福音の真理は私たちに神様の愛と救いを示します。そうすると、それまで自分のためだけに生きていたのが、人のためにも祈ることができるようになります。教会へ行くことも人に命令されて行くのならそれは奴隷であって自由ではないでしょう。しかし、教会は神様がクリスチャンに備えられた祝福の場所であり、イエス様の御名のもとに二人、三人集まる時に、イエス様がともにおられることを知るなら、教会はクリスチャンにとってかけがえのない場所となります。献金も強いられてするなら、それは奴隷です。しかし、献金の目的と意義を学び、献金には神様の特別な報いがあることを知るなら、ささげることは奴隷ではなくなります。
 「真理はあなたがたを自由にします」ということばは本当です。

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