本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書9章1-12節 「神のわざが現れるため」

1.神のわざ

 アブラハムの子孫だと偉ぶるユダヤ人たちに向かって、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。」とイエス様は言われました。その「アブラハムのわざ」とは何かを理解することが、メッセージの鍵であるとお話しました。それは、「罪人を裁くのではなく、罪人のためにとりなし、救いのために祈ること」です。また「悪魔のわざ」とは人を滅ぼそうとすることです。
 今朝の聖書箇所では、「神のわざ」ということばが出てきます。「神のわざ」とは何でしょうか?――それを規定し、限定することは難しいのですが、悪魔のわざが「人を滅ぼすこと」なら、神のわざとは「人を生かす働き」「人にいのちを与える働き」と言えるでしょう。また、ヨハネ6:29では「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」とイエス様がおっしゃられています。したがって神のわざとは「信仰を持ち、救われ、いのちを持つこと」です。これが9章の内容を理解するための大きな鍵となります。

2.理解できない神の創造のわざ

 イエス様が弟子たちと共に歩いていると、一人の盲人に気づかれ、注目されます。じっと見ておられたのかもしれません。弟子たちも盲人を見、彼が背負ってきた不幸を感じてイエス様に質問します。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。
 誰もが抱く疑問です。なぜ障害者が生まれてくるのか?なぜこの世に生まれたときからハンディがあるのか?なぜ神は人を不公平に創造されるのか?・・・人はその質問に答えを出すことが出来ません。ですから、自分が不幸を背負うときには、悩んでも仕方がないと現実を受け入れて生きるか、不幸を嘆き、神を呪って生きるかのどちらかなのです。

 当時のユダヤ人社会では、病気や障害を持って生まれてくる者は、その両親あるいは先祖が大きな罪を犯したために神のさばきとしてそうなったのだと信じられていました。モーセの律法に次のようにあります。
出エジプト20:5 「・・・あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」

 ですから、「罪人の子は祝福されない。病気や障害は罪の罰として現れる」と考えられていたのです。ですから弟子たちの質問はそれほど的外れではありませんでした。
 生まれつき目が見えないということはなんと残酷な障害でしょう。自分の顔を見ることはもちろん出来ないのですが、愛して育ててくださる親の顔さえ一度も見ることができません。神様の創造のわざを人は見て楽しむことが出来ますが、盲人は見ることができません。四季の移り変わりや自然の美しさをどれだけうまく言葉で表現しても、色を見たことがない人にとって赤も黄色も分からないのです。まして、「あなたは罪人の子で罪の中に生まれたのだから目が見えないのだ!」と責められ非難されるなら、どんなにつらく悲しい人生でしょう。

3.実行された神のわざ

 イエス・キリストの答えは弟子たちの予想を裏切るものでした。
9:3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
 誰の罪のせいでもない。・・まったく予想しなかったイエス様の答えでした。聖書の教えと違うではないかと弟子達は思ったことでしょう。しかしイエス様は旧約聖書のことばが間違いだとも言われていません。確かに聖書の言うとおりに罪のために病気になる人もいるからです。しかし、すべての人が罪の結果として病気や障害を背負うのではありません。「神のわざがこの人に現れるためです」と、イエス様は断言されました。神のわざとは「信仰を持ち、救われ、いのちを持つこと」です。彼は神の恵みによって信仰を持ち、救われることをイエス・キリストは宣言されます。彼の心は死んだような状態だったのが生き返るようになるとおっしゃっているのです。

 その後にとられたイエス様の行動は注目に値します。
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 地面につばきをし、そのつばきで泥を作り、盲人の目に塗られました。私はこのイエス様の姿を見るときに、「壊れた陶器を修理しておられるかのようだ」と思います。創り主であるお方が、その創ったものを修理しておられる姿だと。
 主イエスは「シロアムの池で洗いなさい」と命じられました。彼はイエス様のことばを信じ、命じられたとおり従いました。そして目が見えるようになりました。
※2004年にシロアムの池が発掘調査によって発見されました。それまでもシロアムの池とされていた場所があったのですが、それは5世紀になって再建されたもので、本来のものではないことが分かっていました。しかし今回の発見は、ほぼ間違いがないキリスト時代のシロアムの池だと考えられています。


4.褒めたたえられる神のわざ


 盲人の喜びは、いかばかりだったでしょう。盲目に生まれつき、どこにも一人では行けず、両親もこの子供のためにわずらわされるのを嫌がっていたことが後の話から伝わってきます。現在のように福祉が整ってはいない時代です。仕事にも就けず、障害者に出来ることは物乞いだけでした。誰も好き好んで物乞いをする人はいませんが、彼にはそれしか活きるすべがなかったのです。人にあわれみを乞い、情けをかけてもらって生きている人生ほど悲しいものはありません。将来に希望があれば生きてゆけるでしょう。しかし、生まれつき目の見えない彼にとって、直る希望もなく、ただ座って、その日の食べる物を恵んでもらい、年老いて朽ち果てるのを待つしかなかったのです。
 しかし、キリストだと噂の人がやってきて恵みのことばをかけてくださいました。周りの人からはさんざん「おまえは罪人だ、障害は神の刑罰だ」と言われてきたのに、このかたは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と言ってくださった。そのおかたが目に泥を塗ってくれ、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じておられる――信じて行くしかない、と思ったに違いありません。

 この盲人の姿を想像してください。シロアムの池まで手探りして行ったでしょうか?それとも大声で『誰か私をシロアムの池まで連れて行ってください』と願い、担がれていったでしょうか?水辺に着くや否や、期待と不安の中で、命じられたとおり目を洗うと、見えるようになったのです!『見える!』と叫び、神を褒め称えたでしょう。水を初めて見、木や山や空をはじめて見た時の彼の気持ちはどんなだったでしょう。見るものすべてが新しく、光が与えられ、生まれ変わったのです。神のわざが彼に現れたのです。そのわざとは目が見えるようになったこと以上に、彼が主イエスを信じて永遠のいのちを持ったことなのです。この神のわざは、現在でもイエス・キリストを主と信じる人々に同じように起こります。キリストにあって私たちは生まれ変わります。それは言葉では言い表せない感動であり、喜びです。


 ただ、考え違いをしてほしくありません。キリストを信じるならどんな病気も障害も直ると言っているのではありません。歴史の中で、聖書の成立と共に、神様の特別なしるしは起こらなくなっています。イエス・キリストを信じたからといって5000人の給食のときのように食べ物が増えることはありません。どんなに熱心に祈っても死んだ人が生き返ることはありません。毒蛇に噛まれたら手当てをしなければならないのです。ただし、直る病気もあります。
ヤコブ5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
5:14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 ですから病気になったときに私たちは心から祈ります。しかし、「直らないから、神様の祝福は自分にない」と思わないでください。
 クリスチャン作家で有名な三浦綾子さんの生涯は、ほとんどが病気との闘いでした。肺結核、脊椎(せきつい)カリエス、帯状疱疹(たいじょうほうしん)、直腸癌、パーキンソン病を患われました。あるときテレビ番組のインタビューで、御自身の病気について次のように語られました。「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしているのではないかと思います。」――病気を一つするたびに、一つずつ新しいことを学び、たくさんの方々に祈ってもらえ、たくさんの慰めをいただいた。病気を患わなければ与えられない神様の特別な恵みをたくさんいただいている、と証ししておられました。

5.私たちが実行すべき神のわざ

9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

 「わたしたちは」とイエス様は言われました。つまり私たちも働くことのできる間に「神のわざ」を行なっていかなければなりません。それは、人に光を与え、いのちを与える働きです。
 あなたを通して神のわざが現され、そしてあなたが神のわざを行なう者となりますように。

次へ  ヨハネによる福音書へ戻る