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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書9章13-41節 「目が見える人、見えない人」


1.目が見えるようになった人


 前回、イエス・キリストが生まれつき目の見えない人の目をあけられたしるしの箇所から学びました。盲人の目に泥を塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と主は言われました。盲人はそのことばを信じて池に入り、目を洗うと、今まで全く見えなかった目が見えるようになったのです。

2.目が見えなくなった人

9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。


 イエス・キリストが盲人の目をあけられたという話はあっという間に広まりました。盲人であった男を見て、「本当にあいつが物乞いをしていた人か?」「どうやって見えるようになったのか?」と、その事実に驚き、町中がこの話でもちきりだったでしょう。驚いた町の人たちは目が開かれた男を、指導者であるパリサイ人のところへ連れて行きました。「こんな素晴らしい出来事がありました!」「神様の大いなる御わざが起こりました!」と報告するつもりだったのかもしれません。しかしパリサイ人の反応はまるっきり違いました。
 パリサイ人はまず、どのような経緯で目が見えるようになったのかと尋ねました。男は正直に「あのイエスと言うかたが目に泥を塗ってくださり、目を洗うと目が見えるようになった」と話しました。それを聞いてパリサイ人は、
16節「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」
と言ったのです。
 パリサイ人全員ではなかったにせよ、彼らの目にイエス・キリストは「安息日に治療行為を行ない、律法にそむいた不届き者」と映ったのです。ここでもまた安息日の問題です。5章において、ベテスダの池にて38年間病気で寝たきりの男をイエス様がいやされたときも、その日が安息日だったので大きな問題となり、イエス・キリストは迫害されるようになりました。ユダヤ人にとって「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。どんな仕事もしてはならない。これを犯してはならない」という十戒の戒めは厳しく教えられ、子どものころから叩き込まれた戒めでした。ですから「安息日に泥を目に塗ってもらい目が見えるようになった」と聞いた途端、「安息日に治療行為をして働いたのは誰だ!」と言うことになるのです。パリサイ人の目には、イエス・キリストが行なわれた神のしるしが、「神の律法に対する反逆」としか映らなかったのです。彼らの目は見えていたのですが、真実が見えなくなっていたのです。

 このことは、私たちクリスチャンも気をつけなければならないことだと思わされます。と言うのは、私たちも教会を大切にするあまり、日曜礼拝至上主義に陥る危険があるからです。私がそうだったのですが、イエス様を信じて救われ、バプテスマを受け、献身して神学校で学び、牧師となりました。私にとって教会は何よりも大切で、教会のためにいのちをささげる覚悟でいました。日曜日の礼拝のために懸命に御言葉の準備をし、熱心に祈りました。熱意を注いで礼拝の準備をし、主の祝福を期待し、教会員の方々が来られるのを歓迎しました。牧師ですから日曜日に教会の礼拝を休むことなど考えられないことでした。家庭にどんな事情があっても、病気で熱があっても礼拝は休みませんでした。そうすると、教会員の方が、「旅行で礼拝をお休みします」とか、「子供の運動会でお休みします」と言う連絡があるたびに、腹立たしくなりました。「そんなことで礼拝を休むのか?」と怒りがこみ上げてきました。自分が礼拝に熱意を注げば注ぐほど、礼拝を欠席する教会員に対して苦々しい思いを持ちました。今思えば、まさにここに登場するパリサイ人と全く同じでした。礼拝をおろそかにしていいというのではありません。しかし、礼拝至上主義に陥って人をさばくのは神の御心ではないのです。この失敗は私だけでなく、御言葉に忠実に歩もうとする信仰者に必ず起こることです。なぜなら「熱心」と「怒り」はコインの表と裏のように切り離すことが出来ないからです。
 そのことから助けられたのは、礼拝とは何かを学んでからでした。「本当の礼拝とはなにか?」それを知ることによって自分の罪を示され、救い出されました。
「神は霊ですから神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネ4章24節の御言葉です。礼拝は私たちが神様に対して出来る最高の奉仕です。そして、それは常に自発的にささげられるものなのです。そこに高慢や怒り、憎しみがあってはなりません。創造者である父の御前に、へりくだった心、悔いた心、真実な心をもって礼拝者として集うのです。


3.高慢によって目が見えない


 パリサイ人たちは言いました。「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」そして、自分たちの主張を裏付けるために、盲人であった男の意見を聞くと、「あの方は預言者です」と言う。納得できず、彼の両親を呼び出します。両親は、息子が盲目だという事で今まである事ない事を言われ、罪人呼ばわりされ、息子の面倒をみることにも疲れていましたから、これ以上面倒に巻き込まれたくない一心で、知らぬ存ぜぬを決め込んでしまいます。そこで、パリサイ人はもう一度、男を呼び出して質問します。
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

 34節の最後の言葉こそ、パリサイ人たちの心の中にあることでした。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」彼らの心の高慢が表れている言葉です。自分たちは指導者であって、正しく、罪人のお前に教えられることなどない!というのです。聖書に「あなたがたの指導者のことを悪く言ってはいけない」、「すべての立てられた権威に従いなさい」とあります。信仰者は指導者を尊敬し、従うべきです。しかし神様の怒りはその指導者という立場を利用して高慢に振舞う人の上に下るのです。


 高慢こそ罪の根だと言われます。高慢な人は、
@神を受け入れることが出来ません。自分が常に正しいと思い、自分を神と等しくするからです。
A自分の罪を認めず、人の罪をさばきます。
B神も人も愛することが出来ません。
C真理を受け入れません。神のことばを聞いても自分の考えのほうが正しいと信じるからです。
D最も厄介なのは、自分が高慢であることに気付かないことです。
 ここに登場するパリサイ人は、イエス様のことばを聞いても、誰が何を言おうとも、受け入れません。キリストがしるしを行なっても、「安息日の戒めを破った」とけちをつけ、受け入れません。高慢が彼らの目を見えなくしてしまったのです。

4.信仰によって目が見える

 パリサイ人は盲目であった男を会堂から追い出し、追放しました。そのことを聞いてイエス様は彼に会いに行かれました。
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 男はイエス・キリストに再び会い、はっきりとこの方こそ救い主だと信じます。信仰によって霊の目が見えるようになった瞬間です。神のわざがこの人に現れた瞬間でした。イエス様は言われました。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 「私は目が見えない。私は耳が聞こえない。私は真理が分からない。・・だから神様、助けてください!」−−そう願い求める人は、見えるようになり、真理を知るようになるのです。しかし、「私は見える。私は聞いている。私は何でも知っている!」という人は、目が見えなくなり、真理から外れ、さばかれて滅んでしまうのです。

 今日の聖書箇所を読んで、皆さんに心から願うことは、このパリサイ人のようにならないでほしいということです。「私は神様のことは知っている、キリストのこともよく聞いているから、もう十分だ」と言わないでください。その人は本当に知らなければならないことの1パーセントも知ってはいないのです。神様の創造の御わざと永遠のご計画は驚くばかりです。神様があなたに与えようとしておられる福音の恵みは計り知れません。「私は目が見える」と言って、救い主であるイエス・キリストを追い出さないでください。私たち人間には、霊の目を開いてくださるイエス・キリストが必要です。
「しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。」

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