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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書10章1-18節 「良い牧者は羊のためにいのちを捨てる」

1.聖書に登場する羊飼いと羊

 聖書には多くの箇所で羊や羊飼いの話が登場します。それは、イスラエル民族がもともと放牧民であったことが理由の一つです。聖書中の主要人物はほとんどが羊飼い経験者です。アブラハム、イサク、ヤコブら族長と言われる人たちは羊飼いでした。モーセは40年間羊を飼い、ダビデ王も子どものころ羊飼い経験者です。創世記4章に登場するアベルはアダムとエバの息子ですが、「アベルは羊を飼う者となり」と記されているので、人類の歴史の初めから羊飼いという職業があったことになります。また旧約聖書の律法には、罪を贖うための犠牲として羊や山羊をささげることが定められていました。そしてイエス・キリストが来られたとき、ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様を見て叫びました。これほど聖書が羊飼いと羊にこだわっているのはなぜでしょう?――それは、羊飼いと羊の関係が、主なる神様と私たちの関係ととても似ているからです。
 イスラエルの人々はこのことを、ダビデの美しい詩篇で教えられていました。
詩篇23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

 ダビデは創造者である神が羊飼いのように私達の世話をしてくださり、必要のいっさいを備えてくださる御方、悪いものからいのちをかけて守ってくださる素晴らしい御方であると記しています。ダビデにとって神様は、遠く離れた天から見下ろし、ただ眺めているだけの御方ではなく、いつも親しく交わり愛してくださる御方でした。ダビデは「主は私を導かれる羊飼い」だと告白しているのです。
 イエス様がヨハネ10章で羊飼いと羊の例えを話されたとき、イスラエルの人々がこのダビデの詩篇を愛聴していることを知っておられましたから、それを踏まえて話されていることは明らかです。ご自身が人々を導くまことの羊飼いであることを示そうとされています。

2.羊飼いと羊のたとえ

 イエス様が今日の聖書箇所で教えておられる主要なメッセージは明らかです。それは、ご自身が「良い羊飼いである」ということです。1−5節では、羊飼いと羊の関係についてまず語られています。
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
 7−10節では、ご自身が羊の門であると言われます。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。


 このたとえは、どういう意味でしょうか?
@イエス様こそ救いの門
 羊飼いは囲いの門を開いて羊を野原に連れて行き、草を食べさせ、水を飲ませます。そして夕方になると囲いの門まで羊を誘導し、羊が門から入るときに怪我がないかを調べ、またすべての羊がいるかを確認します。もしも羊が迷ってしまったり盗まれていたなら、それは弱い羊にとって死を意味しました。このたとえは私たち人間にとって正しい救いの門は一つであり、それはイエス・キリストであることを示しています。
Aイエス様こそ永遠のいのちを与えるおかた
 羊はこの門を出入りすることにより日々の生活を安らかに送ることができます。それは私たちも救い主によって永遠のいのちを与えられ、日々の生活を豊かに生きることが出来ることを教えています。

 11−14節では、御自身が「良い牧者」だと言われました。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

 ここで教えておられるのは次の事です。
@イエス様こそ、まことの主です。
 詩篇23篇に語られている「良い羊飼い」はイエス様であり、それは「主」であるお方です。これはヨハネによる福音書の中で何度も語られている真理であり、イエス様自身が繰り返し主張されていることです。
Aイエス様は羊のためにいのちを捨てられる。
 良い羊飼いは羊を守るためにはいのちさえ捨てるという真理を示し、イエス様が羊である私たちのためにいのちを捨てられることを預言しています。このたとえ通り、イエス・キリストは私たちの罪の刑罰を背負い、身代わりとなって十字架にかかり死なれました。どうしてそこまでして主である神が人間の罪の身代わりとなって苦しんでくださったのでしょう?なぜ、ご自分が創造された人間のためにその創造者が苦しまれるのでしょう?私たちには不思議としか言うことが出来ません。しかしイエス様のことばはその答えを与えてくれます。「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」のです。それほど羊である人間を愛し、守ろうとしておられるのです。

3.私たちは羊である

 イエス様が教えられたように、人間は羊ととても似ていると思います。自分ひとりの力では生きていくことができません。どこへ行ったらよいのか、何を目標として生きたらよいのか全く分かりません。ですから羊飼いが必要です。緑の牧場と憩いの水のほとりに導いてくれる良い羊飼いが必要です。
 誰が正しく導いてくれるでしょうか?親でしょうか?学校の教師でしょうか?――親もどう生きたらいいのか迷いながら生きています。子育てすら手探りでやっているのです。一人ひとり、顔も体型も、性格も環境も違う子供に当てはまる子育て法や教育法などあるはずがありません。まして何を持って「良い子供」と呼ぶのでしょう?親も教師も知識を与えることが出来ても知恵を与えることは出来ません。それは神様が与えられるものだからです。優しい子になれと教えることが出来ても、優しさをその子に与えることは出来ません。

 そして最も大切なことである神について、永遠について、誰が教えることが出来るでしょうか?――それは人間の理解をはるかに超えているのです。それは人間を造られ歴史を創られている神にしかできないことです。神はご自身について、また永遠のご計画を隠されずに預言者たちを通して教え続けられました。神のことばである聖書には神の真理が教えられているのです。そして聖書は私たちに「良い羊飼い」を紹介しています。それはイエス・キリストです。キリストがバプテスマを受けられた時に天から声がありました。「これはわたしの愛する子、彼に従いなさい」・・私たち人間にとって最高の羊飼いはこのキリストであると父なる神が宣言されたのです。
@キリストは神について、永遠について、完全に教えることが出来るおかたです。なぜなら天から降りてこられた御方だからです。
Aキリストは私たちを救うことが出来る御方です。罪を赦す権威を与えられているからです。Bキリストは私たちを正しく導くことが出来る御方です。あなたを愛し、御自身のいのちをささげられた「良い羊飼い」だからです。

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10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
※「この囲いに属さないほかの羊」とは、異邦人の事を指しています。主イエスはイスラエルの滅びた羊のために遣わされたのですが、福音の奥義は異邦人へも与えられました。主イエスにあってイスラエルと異邦人は一つの教会となるのです。

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