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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書10章19-42節 「良い羊飼いに導かれる」



1.良い羊飼いであるイエス様

 イエス・キリストは「わたしは、良い牧者です。」と語られました。そして、「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言われ、そこには十字架にかかられるイエス様の姿が見えてきます。そして「いのちをもう一度得る権威があります」とも語られ、十字架の死の後によみがえられることを預言されました。それを聞いたユダヤ人たちにはまたも分裂が起こりました。
10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」

2.良い羊飼いに従わない理由


 ユダヤ人の間で分裂が起こり、イエス様をメシアだと信じる人たちと信じない人たちがいたので、イエス様は別のときに羊と羊飼いのたとえを続けられます。
10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 羊は自分の羊飼いの声に聞き従い、他の羊飼いには聞き従いません。同じように、イエス様の羊は聞き従うが、そうでない羊はイエス様の声を聞いても従うことができないのです。
 9章に登場した盲目に生まれついた男性は、イエス様の声を聞いてその声が主の声だと分かり従いました。彼はイエス様の羊でした。しかしパリサイ人たちはイエス様の声を聞き、しるしを見たのですが、全く従おうとしませんでした。イエス様の羊ではなかったからです。

 ユダヤ人たちはイエス様に詰め寄ります。「もしあなたがキリストならはっきりとそういってください」・・・実はこの言葉には彼らの策略が隠されています。もしイエスが「私はメシア、キリストであり、ユダヤ人を救うために来た!」と言うなら、それは「ユダヤ人の王」になろうとしていることであり、ローマ帝国に対して反乱を企てているとして、ローマ皇帝に訴えることができました。
 もしキリストが『わたしは神である』と言ったなら、それは律法によって石打ちの刑にすることが出来ました。聖書の教えでは「自分を神とする者」は悪魔的であり、反キリストです。ユダヤ人がイエス・キリストを受け入れることが出来ず、つまずいたのはまさにこの点です。「人間は決して神と等しくはなく、神にはなりえない」と言う当たり前の信仰がキリストを受け入れる障害となったのです。

 そう考えると、もし、イエス様がお生まれになった場所が日本だったなら、日本人の多くはイエス・キリストを神として崇めたのではないかと思います。日本では人間が神様になり、崇拝の対象になるからです。何かに秀でた人を神として奉る日本なら、イエス様が来られて不思議なしるしを行なわれたら、こぞって信じたのではないでしょうか。

 しかし、人間は生きているうちは勿論、死んでも決して神になることはありえません。人間は創造者ではありません。神による被造物であり、礼拝される対象ではないのです。この真理は絶対に変わることがありません。ユダヤ人はこの真理を知っていましたからイエス・キリストを受け入れなかったのです。彼らが見落としていたことは、「もし、神が望まれたなら、人となってお生まれになることが出来る」という点でした。

10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」


 イエス様は彼らの思い違いを正そうとして二つのことを弁証されます。
10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
10:36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。
10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

@旧約聖書のなかで、「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、」『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって――と弁明されています。(詩篇82編を読むと、そこには悪しき指導者たちに対する神様の皮肉をこめた言葉で『お前たちは神々だ』と語られています。)
A「わたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」と教えられます。ヨハネによる福音書ではすでに六つのしるしを学びました。カナの婚礼において水をぶどう酒に変えるしるしに始まり、5千人の給食、ベテスダの池での病人のいやし、そして盲目に生まれついた人の目を開けられました。それらのわざによって信じなさい、と。――それは正しい信仰の持ち方ではないのですが、かたくななユダヤ人に対して譲歩されたことばです。イエス様がよみがえられたときに疑い深いトマスに現れ、「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」また「あなたは見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです」と語られたことと似ています。正しい信仰の在り方は、漢字でも表されているように「人」が「言」に信頼することです。見て信じるのは当たり前の事実だからです。

3.宮きよめのまつり

 最後にもう一つの点にこだわってみたいと思います。ヨハネはこの場面が宮きよめの祭りのときのことと記しています。7章では、仮庵の祭りの終わりの日に語られたイエス様のことばを学びました。
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 このことばは「仮庵の祭り」と大きな関係がありました。仮庵の祭りは、かつてイスラエルが荒野で放浪生活したことを覚えるための祭りです。モーセに率いられたイスラエルが渇いたとき、岩から流れ出たいのちの水を飲んだことを踏まえてイエス様は語られました。

 今回は宮きよめの祭りです。そしてここでもイエス様のことばはイスラエルの歴史と深い関連があります。まず宮きよめの祭について知る必要があるでしょう。イスラエルではハヌカと呼ばれ、ちょうどクリスマスのときに祝われているお祭りです。紀元前167年のマカベア戦争にユダヤ人が勝利したことを記念した祭です。当時のイスラエルはギリシャの支配下にあり、ギリシア人の王、アンティオコス四世・エピファネスがBC170年にエルサレムを攻撃してこれを占領しました。彼は熱烈なギリシャ文化の愛好家で、エルサレムからユダヤ教を徹底的に排除し、ギリシャ文化と宗教を導入しました。エルサレム神殿の祭壇をゼウスの祭壇に変え、豚をいけにえとしてささげました。しかし、マカベヤ家が起こした反乱により、ユダヤ人たちはギリシャに勝利し、ギリシャ人をエルサレムから追放したことを記念する祭りでした。この、アンティオコス・エピファネスはダニエル11章31節で預言された反キリストのひとりだとされています。世の終わりに登場する、あのレフトビハインドと言う映画にも描かれている反キリストの雛形と言えます。したがって要約するなら、宮清めの祭りは、エルサレムから反キリストを追い出したことを祝う祭りです。
 ユダヤ人たちはイエス・キリストのことを偽預言者、反キリストと考え、それを排除しようと懸命になっていました。彼らも宮から反キリストを追い出し、宮をきよめようとしていました。しかし彼らの判断は間違っていました。誤った信仰によって彼らは救い主を石打ちにして殺そうとしかけたのです。他方、イエス様も宮をきよめようとされています。イスラエルを堕落と背信から救おうとし、商売人を宮から追い出し、神殿を清められました。両者の対立は平行線のまま進んでいきます。それは2000年経った現在も続いているのです。
10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。

 どちらの宮きよめが正しかったのかは、次で明らかです。
10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。
10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

 バプテスマのヨハネが預言したとおり、イエス・キリストは神のことばを語り、しるしを行ない、福音を宣べ伝えられたのです。あとは私たちの問題です。それを信じるか信じないかです。イエス・キリストの事を自分の羊飼いと受け入れるか、反キリストとして追い出すかどちらかです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

 信じない者にならないで、信じる者になってください。

※ソロモンの廊について
エルサレム神殿の敷地内の南側に建てられ、二列に並んだ大理石の円柱がつらなる上を、屋根が覆っている豪華な長い柱廊でした。両替人たちやいけにえ用の鳩を売る業者たちがいて、かれらをイエスさまはここから追い出しました。この場所では律法を教える目的であれば、どの教師でも自由に「路傍講義」を開くことが許されていました。ペンテコステの後、ペテロが説教したのも、この場所でした。初代教会の人たちは集まる場所がなかったためこのソロモンの廊に集って集会を持ちました。

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