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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書11章1-27節 「わたしを信じる者は死んでも生きる」



1.ラザロの病気は神の栄光のため

 著者ヨハネはこの11章において、イエス・キリストが行なわれた最も印象的で驚くべきラザロのよみがえりのしるしを記しています。これはヨハネによる福音書中、第7番目のしるしです。
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
 著者ヨハネは、まずラザロを紹介しています。
@病気にかかっていた Aマリアとマルタと兄弟 Bイエス様が彼らを愛しておられた
 ラザロの病気はかなりひどい状態だったのでしょう。動かすことが出来ないほどの重病でした。それ故、姉妹たちはイエス様のところに人をやって「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えました。その言葉には、「どうかすぐに来てください。そしてラザロの病気を直してください」という彼女たちの切なる願いが込められています。彼女たちは主イエスを救い主と信じ、彼にはどんな病気も癒す力があると信頼していたのです。マリヤとマルタから教えられることは、自分たちの心配を主への願い(祈り)に変えたことです。

 私たちの教会にも病気と闘っておられる兄弟姉妹がおられます。病気が重症であればあるほど、長引けば長引くほど、不安が募ります。もう立ち上がれないのではないか?このまま自分は死んでしまうのではないか?――そして自分の過去を振り返り、「自分は今まで何をしてきたのか?何も残せていないではないか!」と後悔します。敬愛する一人の牧師は、医者から「あなたのいのちはあと十年です」と告知されて、すでにその十年が過ぎておられます。その十年間に自分のいのちの日を数えて備えをしっかりしてこられました。説教を通して、週報に記す言葉を通して、教会員に折々に触れて、信仰といのちの尊さを示してこられました。
 私たちのいのちには限りがあることを認めて、神様から与えられている一日一日を大切にしなければなりません。9節では「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。」と主は語られました。イエス様が何を言おうとされているのかすべてを理解できないのですが、神様が与えらおられる時間を大切にし、光あるうちに働きなさいと勧めておられることは間違いないのです。

 イエス様はラザロが病気だという知らせを聞いて言われました。
11:4「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
 イエス様はラザロが死んでしまうことを知っておられました。そしてラザロがよみがえることも知っておられました。ですから「この病気は神の栄光のため」だと語られました。ラザロがよみがえることによって多くの人が神を褒め称え、イエス様を救い主キリストだと信じるようになるからです。しかし、もしラザロが死んでよみがえらなかったとしても、彼の死を通して神の栄光が現わされたと思います。それは信仰の人として天に召された人の証しは残るからです。
詩篇 116:15 主の聖徒たちの死は【主】の目に尊い。
 マリヤとマルタの心の中にラザロの信仰の証しは残ったでしょう。天国の民として生きたラザロの証しは、彼が天の故郷へ帰っていったのだと彼女たちに認めさせ、そして天国で再会できるという希望に変わったはずです。

 私は自分の信仰の証として、説教をテキストファイルとして残し、説教を録音して保存し、ホームページで公開しています。イエス・キリストの福音を一人でも多くの方々に伝えたいという想いと同時に、私が天に召されたとき、信仰の証として残すためです。ぜひ皆さんも信仰者として生きた証しを残すようにしてください。賛美や楽器が得意な人は録音して保存して残してください。YouTubeなどに載せることも良い証になるでしょう。文章を書ける人は、主の栄光のために熱心に書いて残せたら素晴らしいでしょう。星野富弘さん、水野源三さんのように詩や絵を描いて残せたら素晴らしい証しです。あなたが天に召された後も、あなたの信仰の証しが人々に示されるようにしてください。
ヘブル 2:9 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
 イエス様は御自身の死によって私たちに永遠の救いを与え、神の栄光を現わされたお方です。

2.ラザロのところへ行きましょう

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

 イエス様はラザロの病気の知らせを聞いた後、二日間その場所に留まられました。なぜなのか理由は記されていません。しかし15節を読むと、あえてラザロが亡くなるときにそこに居合わせないようにされたことが分かります。それはラザロの死がすべての人に確認されるためです。そうでないと「ラザロは半死状態から蘇生した」と言われかねません。ラザロの死とよみがえりが誰の目にも明らかになるため、イエス様はその場所に留まられたのです。

3.ラザロはよみがえります

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

 イエス様がベタニヤのラザロのところに到着されたのは、ラザロが亡くなって4日後でした。マルタはすぐにイエス様を迎えに外へ出て、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」と嘆きました。「イエス様、来てくださったけれど遅かったです。あなたがいてくださればラザロは死ななくてすんだのに!」というマルタの悔しさをあらわしています。愛する人を失った悲しみと失望で覆われていて、イエス様に対する期待、祈りが失われています。
 イエス様はマルタに言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。」――マルタはそれを慰めの言葉だと受け取りました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」――それは確かにマルタの信仰でした。後の日にラザロはよみがえると知っている!・・しかし今、ラザロは死んでしまったと。

4.わたしを信じる者は死んでも生きるのです

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
 もしイエス様の目的が、神の驚くべきしるしを現わすことだけなら、さっさと墓の前に行ってラザロをよみがえらせればよかったはずです。ラザロをよみがえらせて「これが神の力です。わたしを救い主として信じなさい」と語ればよい。しかし、イエス様はあえてマルタに質問されました。「あなたはこのことを信じますか?」――ここにイエス様が私たちに求められていることを知るのです。それは、イエス様のことばを信じることです。10章でも学んだことですが、しるしを見て信じるのは本当の信仰のあり方ではありません。同様に、祈りが答えられたから信じるのは本当の信仰の持ち方ではありません。祈る前に「祈りは聞かれる!」と信じて祈るのです。このときもイエス様は、ラザロをよみがえらせる前に彼女たちが信じることを求められました。神様の祝福は信じる者の上にあるからです。

 また、イエス・キリストのことばにはさらに深い意味が込められています。人間には一度死ぬことと死後にさばかれることが定まっています。それは何があっても変わることがない定めです。しかし、イエス様のことばはそれをくつがえしています。「わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」――そんなことがあるはずがない!と思われるでしょうか?クリスチャンになったら得体の知れないゾンビのように、死なない身体になるのでしょうか?――勿論そんなことではありません。では何を言おうとされているのでしょうか?――それは肉体の死ではなく、霊と魂についてです。信仰者の肉体は、死ぬと地のちりに戻りますが、霊と魂は決して死ぬことがありません。霊と魂は神のみもとに行き、慰められ、永遠の祝福に入るのです。(不信者の霊と魂は、死んでもなくなりませんが、永遠の苦しみの場所(地獄)へ行くことが定められています。それは神とその祝福から引き離された状態で、「死んだ」状態です。)


 イエス・キリストが墓の中からよみがえられたように、キリストを信じるすべての人は、キリスト再臨の時によみがえらされ、栄光の身体を与えられることが約束されています。イエス様がよみがえりの根拠であり、原因であり、証明です。ラザロの腐りかけたからだのよみがえりはそのひな型なのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 イエス・キリストは今も私たちに問うておられます。

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