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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書11章28-44節「ラザロのよみがえり」



1.激怒と涙 v.28-37


 この聖書箇所は、ベタニヤというエルサレムに近い町で行なわれた葬式での出来事で、イエス様の第七番目のしるしとなるラザロのよみがえりのしるしが記されています。いつもは沈着冷静なイエス様ですが、この場面では激しい感情を表わされている箇所でもあります。
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

 33節の「霊の憤り」と訳されたギリシャ語は、激情を表わす語が用いられています。「霊において激怒して」とも訳すことが出来ます。ではイエス様の怒りの矛先はなんでしょうか?――ここでは人々の不信仰に対して怒られているのではありません。マリヤの悲しみを知り、周りの人々も涙を流している・・・その悲しみを知り、イエス様が怒られたのは、人をこれほどまでに悲しみに追いやってしまう「死」そのものに対してイエス様は怒っておられるのでしょう。死は現実であり、確実で、私たちをこの地上から取り去ってしまいます。誰もこの死のさばきから逃れることはできないのです。死こそ人間の最大の災いであり、死は私たち人間が最も恐れていることです。
 人として来られたイエス様も、私たちと同じように死を恐れ、悩まれました。葬式の場にいて、残された遺族と共に死を悲しみ、そして励まし、希望を与えようとされています。それは救い主が私たちと同じように人となられたので、私たちの悲しみを知っておられるからです。全能の主であるイエス様が死を恐れたとは考えにくいかもしれません。しかしゲッセマネの園で、イエス様はご自分が受ける十字架の苦しみと死を思い、もだえ苦しまれ、血が滴るように汗を流して祈られました。
「父よ、もし出来ることでしたらこの杯を取り除いてください」
 イエス様は私たちと同じように痛みを感じ、悲しまれ、苦しまれました。ですからマリヤたちの嘆き悲しみを見たときに主イエスも涙されたのです。

 「死にたくない、1秒でも長生きしたい」というのは私たち人類の永遠のテーマでしょう。そのために私たちは健康に留意し、安心して生活できる環境を求めます。病気にかかるなら高いお金を払ってでも医者に掛かります。また、医療に携る人の願いは病気の治療法、治療薬を開発することです。最近の医学の研究開発は、人工的に細胞を培養していくことにより、人間の皮膚や臓器を作り出そうとしています。やけどやシミがあるなら、その皮膚を張り替えることが出来るようになります。万能細胞、IPS細胞と呼ばれ、将来的にはあらゆる臓器を作り出すことを目的として研究が続けられています。もし成功すれば人間も自動車のように、肺のパーツが悪ければ交換、肝臓が壊れたら新しいパーツと交換ということになるのです。早期実現を願います。
 では、なぜ人は長生きしたいのでしょう?――無論、死にたくない、死なせたくないと言うことが私たちの願いだからです。
※パウロは「死」を私たちの最後の敵と呼び、その最後の敵「死」をイエス・キリストは将来必ず滅ぼされる、と記しています。Tコリント15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

 死がある限り、私たちは不安です。死の恐怖におびえていなければなりません。誰も死に打ち勝つことが出来ません。ですが、その死に勝利するためにイエス・キリストは来られたと聖書は教えています。イエス・キリストはご自身が墓の中よりよみがえることによって、死に勝利された御方です。「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われ「わたしを信じるものは死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と宣言することにより、キリストを信じる者も死から解放されていると教えています。その人の罪が赦されたので、死ぬ必要がないのです。
 しかしクリスチャンでも必ず死んでしまうではないですか、と言われるでしょう。イエス様のことばの通りに言うなら、「キリストを信じる者は死ぬのではなくて眠る」のです。ラザロの身体が腐り始めていても、イエス様の目にはラザロは眠っていたのです。会堂管理者ヤイロの娘に対しても、「この子は眠っている」とイエス様は告げられました。将来、必ず息を吹き返すのですから「眠っている」と言ってよいはずです。別の聖書箇所を開きましょう。
Tテサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 愛する人を失った人にとってはなんという慰めでしょう。キリストを信じる人は死を恐れる必要がありません。パウロと共に「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と信仰告白しましょう。

2.信仰と願い v.38-42

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

 イエス様が墓に着かれると「その石を取り除けなさい」と突然言い出されます。マルタは驚き、「もう四日もたっているので・・」と無謀な命令を止めに入ります。彼女の言葉には「もう無理です。あきらめました」と言う気持ちが表れています。ラザロが生きている間は希望を持ち、イエス様がすぐに来られるのを待ち望んでいました。しかしその願い届かず、ラザロが死んでしまい、すでに四日もたってしまい、涙も枯れ果ててしまいました。病人を癒されるイエス様がおられても、ラザロを取り戻すことは不可能だと思いました。死という現実の前に、彼女は希望も墓に葬り、残ったのはあきらめでした。死という最後の敵が立ちはだかり、何の抵抗も許さないのです。しかし、主イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と、マルタに対して再び信じることを求められます。イエス様が語られたことばは、単なる慰めではないことを念押しされています。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」――主イエスが語られたことばは、現実となりました。主イエスが「よみがえる」と言えば、よみがえり、「目を開く」といえば目が開き、「さばく」といえば必ずさばかれるのです。主イエスが語られたことばは、願いや希望ではなく、すべて実現するのです。

 しかし、私たちはイエス様のことばをいつも割り引いて受け取ってしまうのではないでしょうか?「わたしは再び来ます」という主イエスのことばを聞いても、遠い将来のことで自分にはあまり関係がないと考えてしまいます。「イエス様を信じます」と言いながら、9割引して受け取るからです。イエス様が天国の祝福について語られても9割引してしまい、天国に行くことが出来る喜びが1割しかありません。ハデスとゲヘナの苦しみについてイエス様が語られても9割引するので、その恐ろしさ、苦しさを切実なものとして感じません。
 ある牧師がこう言いました。「もし私たちが地獄の苦しみを一瞬でも味わうことができるなら、その人は生涯、福音宣教にいのちをかけるでしょう。誰もあんな苦しい場所へ行ってもらいたくないと思うからです。」また、「もし私たちが天国の祝福を1秒でも味わうことが出来たら、その人は生涯、天国に憧れ、喜びを持って歩むでしょう」 
 マルタもイエス様のことばを割り引いて信じました。「あなたの兄弟はよみがえります」と言われたとき、慰めとしか受け取らなかったのです。ですから、もう一度イエス様は彼女に言われなければなりませんでした。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 人々はイエス様の気迫に押されたのでしょうか?あるいは、ラザロは生き返ると信じたのでしょうか?とにかく墓の石を取り除けます。イエス様は目を天に向けられて祈られました。
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

 この祈りは私たちがイエス様を信じるためというのです。イエス様が祈る祈りは必ず聞かれると知っておられましたが、私たちが信じるために祈り、感謝したのだというのです。

3.大声としるし v.43-44


11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 なんと驚くべきしるしでしょう。腐りかけていたラザロの身体は元に戻り、彼は息を吹き返しました。身体も完全な体です。何の病気だったのか分かりませんが、その病気も癒されたのです。イエス様のしるしは不完全ではなく常に完全です。マルタたちの驚きと喜びはどれほどだったでしょう。彼女たちはまさに神の栄光を見たのです。神の力、神の権威、そして神の愛を見たのです。

 前回の説教でもお話ししたのですが、このラザロの腐りかけたからだのよみがえりは、神のご計画を示しています。
@イエス・キリストが死を打ち破られるおかたである事
Aイエス・キリストが墓よりよみがえられることの雛形として
B将来、死者がキリストの声を聞いてよみがえることの雛形として
 将来、私たちは「○○よ、出て来なさい」というイエス様の声を聞くときが来ます。そして永遠の祝福の中によみがえらされます。何の善い働きがなくても、イエス・キリストを主と信じた信仰により、永遠のいのちを受けるのです。

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