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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書12章36-50節「神の栄誉と人の栄誉」


 イエス・キリストは「光を信じなさい」と命じられました。その光とはイエス様ご自身です。ですから教会が宣べ伝えるべきは、「光であるイエス・キリストを信じなさい!」というメッセージです。清い生活をすることや、罪を犯さないことは神様の御心ですが、聖書の中心の教えではありません。聖書の最も大切な教えは「信じること」です。なぜなら、人は信じた通りに行動するからです。天気予報を聞いて「今日は快晴です」という予報を信じるなら、長靴を履いたり、傘を持っていこうとはしません。同様に、神様を信じているなら、隠れることはできないのですから、罪の生活を送ろうとは思いません。人は信じた通りに行動するのです。光であるイエス・キリストを信じたなら、光の子供となり、光の中を歩むことができるのです。

 本日の聖書個所12章は、イスラエルの群衆に対するイエス様の最後の説教となっています。その説教を聞いたイスラエルはどうしたでしょうか?著者ヨハネは残念な二つの結果を記しています。

A.イスラエルは信じなかった

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

「信じなさい」というイエス様の招きにイスラエルの人々は応じませんでした。彼らはなぜイエス・キリストを信じなかったのでしょうか?
@ 自分たちが描いていた理想のメシアと違っていたから
 イエス様は神の国の福音を宣べ伝えられ、多くの不思議なしるしを行なわれました。イスラエルの王としてエルサレムへ入城された時には、人々は「ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫びつつ喜び迎えました。しかし、その熱は急速に冷めてしまいました。その理由はイエス・キリストが王になろうとされず、身を隠されたからです。群衆は、イエス・キリストが自分たちと蜂起して革命を起こし、王に成るものと思っていました。しかしイエス様が一向に行動を起こされない、どこへ行かれたのかもわからないという状況でした。興奮していた群衆はがっかりし、裏切られたようにさえ感じたのでしょう。

A イザヤ書の預言の成就
12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである

 ヨハネは、主が彼らの心をかたくなにされたのだと結論付けています。40節はイザヤ書6章からの引用です。そのイザヤ6章は、イザヤ自身が預言者として召される場面です。「誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろう」との主のことばに、「ここに私がおります。私を遣わしてください」とイザヤは志願します。イザヤの献身です。しかし、イザヤに命じられたのは訳のわからないメッセージでした。「聞き続けよ、だが悟るな。見続けよ。だが知るな」・・・ふつう預言者は主の御言葉を取り次いで、人々に「悟りなさい、知りなさい」と宣教するのですが、ここでは「悟るな、知るな」と命じられています。それでは預言者の意味がありません。イザヤも疑問に思い、「いつまでですか?」と質問します。答えは「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」イザヤ6:11-13―ーここにはイスラエルの離散と荒廃が預言されており、そのあとにイスラエルに信仰のリバイバルが起こることが預言されています。この預言はバビロン捕囚とその後のイスラエル帰還によって成就されました。しかし、ヨハネがこのイザヤ預言をここで持ち出した理由は、イスラエルの離散と荒廃、そしてリバイバルが再び起こるからです。つまり、イスラエルの不信仰のゆえに再び離散と荒廃が繰り返されることを預言しているのです。

 しかし、それならどうして神様はイスラエルを不信仰にして、さばくと言われるのか?、という大きな疑問が生じます。神様がイスラエルを不信仰にしたのなら、なぜ、イスラエルに責任を押し付けられるのか?イエス様はイスラエルが信じないことを知っていながら、なぜ伝道されたのか?と。

 この問題はローマ人への手紙9章でも取り上げられています。
9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

 ここでパウロが出した答えは、「神に形造られた者が形造ったものに言い逆らうのか?」とばっさり質問を切り捨てています。しかし、ただ切り捨てるだけでなく、1:28で「神は彼らを良くない思いに引き渡された」と教えています。神が人の心を悪くしたのではなくて、彼らの思いが悪いほうに傾くのをそのままにされたというのです。このことがわかるなら、ヨハネが引用したイザヤ書の預言も理解することができます。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」 盲目の人を盲目のままにされた、かたくなな人をかたくななままにされた、ということです。

…ではなぜイエス様はイスラエルを導くことを止められたのでしょうか?
@ 伝えるべきことばを伝えられたから
 イエス様はイスラエルの民に向けて大声で何度も語られたのです。あとは彼らの心次第なのです。

A 後の祝福のため
 イエス・キリストが十字架に架かり、罪の赦しが全世界の人々に与えられるためです。そしてイエス・キリストの十字架はイスラエルにとっても救いであり、永遠に続くメシア王国のための準備となりました。もしもイスラエルがイエス・キリストを信じ受け入れたなら、十字架刑は執行されず、罪の贖いは完成されなかったでしょう。ですから、イエス様はイスラエルを不信仰のままにされ、導くことを止められたのです。「イエスはこれらのことをお話になると、立ち去って彼らから身を隠された」

B.信じた者もいたが、告白しなかった

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
 イエス様の宣教の残念な結果のもう一つは、「信じた者もいたが、告白をしなかった」ことです。「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた」と書かれているのも関わらず、彼らがその信仰を告白しなかったことをヨハネは嘆いています。彼らが信仰を告白しなかった理由は、「会堂から追放されないため」でした。それはユダヤ教の会堂に出入りすることができなくなること、つまりユダヤ人社会から追放されることです。今まで築いてきた人間関係や友人関係、身分や立場を捨て去ることでした。それで信じた人たちは告白を躊躇したのです。ヨハネは「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」と記しました。
 「選んだ」という言葉を用いずに「愛した」という言葉を用いたところに、著者ヨハネの信仰の熱意と厳しさがあると思います。ヨハネはその手紙の中で「罪の中を歩む者は悪魔から出たものです」「兄弟を憎む者は人殺しです」「愛のない者に神はわかりません」「神によって生まれた者は誰も罪の中に生きない」と断言しています。彼の信仰は竹を割ったようにまっすぐな信仰でした。ですからヨハネにとって、イエス様を信じたのにその信仰を告白せずに隠れたままでいるのはあり得ないことでした。
 ヨハネ自身、迫害を受け、老年になってから捕えられてパトモス島に島流しされました。けれど信仰を捨てるどころか彼の信仰はますます強くされています。「私たちは人に従うより神に従うべきです」と使徒たちが身をもって示した信仰の歩みこそ信仰者の歩みだと確信していました。それは今、イエス・キリストを信じるクリスチャン一人一人が心に留めなければならないことだと思います。

 余談になりますが、聖書の中では蛇が悪魔の化身として登場します。そして蛇は神に呪われた結果としてあのような姿になったとされています。そこには霊的な教えがあります。蛇の生き方を私たちが真似てはいけないということです。蛇の生き方は、@暗い所に住み、A地面を這い、B音も立てずにひそかに行動する―ーそのような生き方です。この世にべったりと張り付いて、人の目を避けながら、障害物を避けて右へ左へとのらりくらり生きるのです。それは光の子供の生き方ではありません。
 蛇の生き方にもう一つ付け加えるなら、C何でも丸呑みする生き方です。人の言うことを何でも鵜呑みにする生き方…それは真理から迷い出る生き方です。人から聞く言葉や教えをよく考え、判断して受け取らなければ誤った方向へ流されてしまいます。それは聖書の真理においても同じです。羊や牛がなぜ聖書の中で清い動物とされているかというなら、それは羊や牛が反芻するからです。その霊的な教えは、神のことばを聞いて、よく消化(理解)して受け取るときに、神の祝福があるのです。イエス様は私たちが神の御言葉を聞いて、よく考え、信じて救われることを求めておられます。そして信仰生活においても、よく考え、正しい判断と正しい良心を持って主に仕えていくことが大切です。自分は神の栄誉を求めているのか、それとも人の栄誉を求めて生きているのかを自問自答しながら信仰の歩みを続けていきましょう。

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