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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書13章21-38節「人の悪と主の愛」



一、   ユダの裏切り

13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
13:24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
13:25 その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
13:26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
13:27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
13:28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
13:29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
13:30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。

@   裏切りの予告
 前回に引き続き、最後の晩餐の席での出来事です。13章前半では、イエス・キリストがその愛を残すところなく示されるために、弟子たちの汚れた足を洗われました。そしてその後、ヨハネが記したのは、イスカリオテ・ユダの裏切りの予告です。ヨハネはユダの裏切りの事件を重大な出来事としてとらえ、福音書の中で幾度も触れています。イエス様が弟子たちに愛を示されているときに、ユダの裏切りを記しています。それは対比しながら出来事をまとめていくヨハネ独特の話の進め方なのでしょう。光と闇、肉と霊、天上の事と地上の事、律法と恵み、命と死、など二元論的な記述をヨハネは取っています。そしてここでも神の愛と人の悪を対比してヨハネは話をまとめているのです。

※聖書は二元論的ですが、それは歴史的に多くの問題を生じてきました。すべてを二元化して、良いものと悪いものに区別する試みがなされ、天上のものは良くて、地上のものはすべて悪いと考えたり、精神世界はきよく、物質は汚いと考えられるようになりました。そのため、物を所有したり売買することは汚いことだと考える人たちが起こりました。2世紀のマルキオンが唱えたのは、旧約聖書と新約聖書を二元化して、旧約の神は怒りの神、人を殺す悪い神であるとし、一方、イエス・キリストが示した新約の神は、愛といつくしみの良い神であると唱えました。彼は、キリスト教徒にとって旧約聖書は必要ないと教えました。これは行き過ぎた二元論です。すべての事を二元化して私たちの生活に適応するなら、それはとても難しい窮屈な生活を強いることになります。これは悪でこれは善という線引きは難しいものです。確かに神様にとってはすべての事ははっきりしていて、善と悪、白と黒に分けられるのですが、私たち人間の判断は常に正しいとは限りませんから、間違った線引きをしてしまうことがあります。さらに、クリスチャンは天上と地上の両方に生きている者ですから、さらに複雑だと言えるでしょう。

A   裏切り者探し
 イエス様はご自身の愛を示された後、ユダの裏切りを予告されました。「霊の激動を感じ」(別訳:騒いで、英trouble)とは、弟子に裏切られるのですから、心が痛み苦しんで当然でしょう。人間関係の中で最もつらいことは、愛する人に死なれる事よりも愛する人に裏切られる事であると思います。イエス様にとってユダも心から愛する弟子であったのです。だからこそ彼に裏切られることは辛く悲しいことでした。
 ペテロは裏切り者が誰なのかを知りたくて、イエス様のすぐ右に座っていた弟子(著者ヨハネ自身であると考えられます)に尋ねるように合図をしました。その弟子がイエス様に尋ねると、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」と答えられ、イエス様はパン切れを浸し、ユダにお与えになりました。「そのとき、サタンが彼に入った。」と書いてあります。彼の心がサタンに支配され悪意で満ちたのです。

B   裏切りの理由?…サタンの働き
 ユダがイエス・キリストを裏切ったのは、それはサタンの働きだとヨハネは書いています。同時にそれは旧約聖書の預言の成就で、誰かがキリストを裏切る運命だったのであり、ユダがその悪役に選ばれたのだとして、ユダに同情する向きもあります。しかし、ユダの裏切りは神の全知の中で預言されていたのであって、ユダ自身に責任や落ち度がないということではありません。ユダの裏切りの理由を調べるなら、それは彼自身の弱さにあります。彼には盗み癖があったことをヨハネは記しています。
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
 お金に対する執着心がユダの弱さでした。そして罪を隠してイエス様に従っていたのですから、彼の心は偽善でいっぱいだったのです。そしてイエス様に対する怖れ、不信感が裏切りへとつながっていきました。
 ユダにはユダなりの弁解があったかもしれません。子供が多くいてお金に困っていたのかもしれません。奥さんに「もうあんなキリストかどうかわからない人に従うのはやめてください」と泣いて頼まれたのかもしれません。借金取りに脅され、銀貨30枚が家族を守るための最後の手段だったかもしれません。
 私はユダに同情しようとは思いませんが、私たちもユダと同じ弱さを持っている人間であるということを覚え、気を付けなければなりません。サタンは私たちの心の弱さ、心の隙間を狙って攻撃してきます。その攻撃をまともに受けてしまってはどんなに信仰深い人でも倒れてしまいます。自分は大丈夫だと思わないでください。信仰の偉人であるアブラハムも、モーセも、ダビデも、預言者エリヤでさえも弱さゆえ、失敗し、罪を犯したのです。私たちが倒れないはずがありません。一歩間違えればユダと同じ道をたどることになるのです。

二、   ペテロの裏切り

13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
13:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 ペテロも弱さを持った人でした。ペテロはイエス様にこう言いました。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」ペテロは心からそう思っていたに違いありません。そしてそう言われることは指導者にとって、大変嬉しいことです。しかし、イエス様の態度は違いました。
13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
 なんと「あなたもわたしを裏切るのだ」と予告されました。一番弟子であったペテロが「イエスなど知らない」と三度も言うのだと預言されました。ペテロ本人が一番驚いたことでしょう。信仰を持ち続けることの難しさがここにあると思います。今、信じて立っていても、明日はわからない。どんなに強い人でもサタンの策略に負かされてしまうからです。

三、サタンの策略に対抗するために

 迫りくるサタンの策略に対抗するために私たちはどうしたらよいのでしょうか?・・・最後の晩餐の席でイエス様は教えてくださいました。
@イエス様は弟子たちの足を洗われて「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。」と話されました。そこには霊的な教えがあります。全身を清めても、この世を生きていくときに必ず足だけは汚れてしまいます。それは私たちの心も汚れていくということです。その汚れをイエス様に洗ってもらう必要があります。それは罪を告白し、罪を赦していただいて、心新たに再び歩み始めることです。

「あなたがたは互いに愛し合いなさい」とイエス様が教えてくださいました。34−35節
 愛は人の弱さと罪に対する特効薬の働きをします。Tペテロ4章8節では 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。「神を愛し、隣人を愛すること」は旧約聖書の戒めでした。しかしイエス様はあえて「新しい戒め」と言われました。何が違うのでしょう?―ー律法は模範のない命令であり、愛する心を与えませんでした。しかし、イエス様の命令は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、イエス様の愛が基礎であり模範となっており、愛する心を与えてくださるのです。

B   サタンに対抗するために神様は聖霊をキリスト者に与えてくださいました。聖霊の力によって歩むとき、私たちは勝利の生活を続けることができます。14章以降、イエス様は聖霊について詳しく教えておられます

四、 主の愛

 イエス様はユダの弱さを知っておられました。ペテロの弱さも知っておられました。そしてあなたの弱さも知っておられます。ユダに対して「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われた時、それはユダの裏切りを甘んじて受けようとする主の決意だと思います。「ユダはわたしを裏切るのだから、ユダの足は洗わない!」と言われず、彼の汚れた足も洗われました。同じように、イエス様はあなたの弱さも知られ、罪汚れていても足を洗ってくださるのです。あなたの罪を赦すために十字架へ向かい、いのちをささげてくださいました。ここに神の愛があるのです。もし、あなたが隠れた罪を持ち続けているなら、その罪からきっぱり足を洗ってください。その方法は、あなたの足をイエス様に洗っていただく―ーイエス様の十字架を見上げ、自分の罪を告白し、赦しをいただくのです。
Uコリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

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