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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書14章1-6節「心を騒がしてはならない」


 最後の晩餐ではイエス様が幹事の役割を果たされました。過越の食事の計画を立てられ、場所を指示し、弟子たちを先に行かせて準備を命じられました。晩餐の席を設けられた目的は、弟子たちに対してご自身の愛を残らず示すためでした。約三年半と言われるイエス様の公生涯の間、12弟子たちは家を捨て、家族を捨て、仕事をやめてイエス様についてきたのです。ほかの多くの弟子たちがイエス様につまずいて離れ去っていくなかで(6章66-69節参照)、12弟子たちはイエス様に従い通しました。その12弟子たちの労苦に報いるため食事を用意し、御言葉によって彼らを励まし、父なる神様の御心を余すところなく彼らに示すために晩餐の席を設けられたのです。

一、 心を騒がしてはならない

14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 「心を騒がしてはなりません」とイエス様は励まされました。彼らを励まさなければならない理由がそこにはありました。
@ この後すぐにイエス・キリストは捕えられ、十字架に架けられて処刑されます。今までこの御方こそキリストだと信じて従ってきた弟子たちは、どうしたらよいのか途方に暮れることになります。彼らは死刑囚イエス・キリストの弟子であったということでユダヤの指導者たちから迫害されるようになるからです。
A よみがえられて40日後に、イエス様は天に帰られました。その後は激しい迫害の中、弟子たちだけで福音伝道を続けていかなければならないからです。

 12弟子たちがこれから経験する迫害は熾烈なものでした。彼らが宣べ伝えた福音は、今私たちが宣べ伝えている福音と全く同じ福音でした。ただ違うのは、現在ではキリストの教えは知られていますが、当時は新しい教え、変わった宗教として異端のように受け取られました。信仰に入る人も多かったのですが、ユダヤ人をはじめとして多くの人々に敬遠され、憎まれました。信者になると村八分にされ、いのちを狙われたため、隠れた生活を強いられるようになりました。不安と恐怖の毎日でした。伝承によるとユダを除いた11使徒のうち、ヨハネ以外は全員殉教を遂げています。ペテロとアンデレは、十字架につけられて殉教しました。シモンはのこぎりで引かれ、ほかの弟子たちも槍で刺されたり、皮をはがれたりして殉教したと伝えられています。
 イエス様は弟子たちがこれから受ける迫害を知っておられたので、彼らを励まされました。「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」
 父なる神とイエス・キリストを信じることが、私たちの不安や心配を取り去る一番の方法なのです。

二、 父の家には住まいがたくさんあります


 イエス様は弟子たちに希望と平安を与えるために、「父の家」について教えられました。それはイエス様を主と告白し従って来た彼らが受ける報い、天における祝福です。それは単なる慰めの言葉ではなく、弟子たちへの約束でした。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

 ある注解書には次のように書いてありました。「天国では住宅難がありません。すべての信仰者を迎え入れる十分な住まいがあります。それは永遠の住まいであって、決して立ち退きを要求されることがありません」―ーさらにうれしいことは、家賃を払わずに無料で住めるのです。
 「場所を備えたら、また来て迎えます」と言われたのは二つの意味が考えられます。よみがえることによって、弟子たちのところへ戻って来られたということです。すぐに弟子たちを天に連れては行かれませんでしたが、復活の勝利によって12弟子たちの場所はすでに天に備えられていました。
 またもう一つの解釈は、再臨の約束です。空中携挙と呼ばれます。将来、イエス・キリストが信仰者を迎えに雲に乗って来られ、眠っている(死んでしまった)クリスチャンをよみがえらせ、次に、生き残っているクリスチャンを一挙に引き上げられます。そして永遠に主とともに住むことになります。
Tテサロニケ4:16-17 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
 両方の意味でイエス様は語られたのでしょう。

 皆さんは天国についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか?エゼキエル書や黙示録等を読むと、天国には父なる神とイエス・キリストがおられ、栄光と賛美に満ち溢れた場所です。御使いやケルビム、そして召された聖徒たちがいて、賛美をささげ、聖徒たちの霊が慰められている場所です。天国の様子については黙示録22章に描かれています。この箇所は厳密にいえば新天新地についてですから、天国つまり「父の家」とは異なりますが、信仰者が将来、栄光のからだを持って入る新しい住まいとなる場所で、「父の家」とほぼ同じと考えてよいでしょう。
黙22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。


 あるとき復活を信じないサドカイ人が来てイエス様に質問した時、イエス様は次のように答えられました。
ルカ20:34-36 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。
 「次の世に入る」とは、千年王国の事か、あるいは新天新地のことを言っておられるます。そこに信仰者は栄光のからだを持って住むのです。ピリピ人への手紙では次のように記されています。
ピリピ 3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 復活されたイエス様と同じような栄光のからだに変えられるのです。信仰者のために神様は次の世の事まで御計画をしておられます。私たちはこれらの聖書のことばから「父の家」の素晴らしさの一部を知る事ができるのです。

三、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです

14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 弟子のトマスはイエス様のことばの意味がよく理解できなかったので率直に質問しました。イエス様はご自身が道であると宣言されました。その道はどこに通じる道かというなら、父なる神が住まれる天へと通じる道です。1章ではナタナエルが登場し、イエス・キリストご自身が天と地上を結ぶ梯子であると教えられました。ここでは天の父と私たちを結ぶ道だと語られています。
 人が死んだ後、天国に入るには一点のシミもあってはいけません。天国は完全に清い場所であるからです。罪けがれを持つ人間を神は裁かなければなりません。残念なことに人間はどんなに努力しても自分の力で自分をきよくすることはできません。しかし神は、ひとり子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の赦しを備えてくださいました。罪を取り除く方法は十字架以外にありません。イエス・キリスト以外に救いの道は与えられていません。
使徒 4:12 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

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