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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書14章7-15節「子によって栄光を受ける父」(父の日の礼拝にて)


一、 父なる神に対する尊敬と信頼


14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

 前回はあえて順序を変えて14章16節からの聖書箇所を学んだのですが、それは聖書の中で教えられている三位一体の教理を学ぶためでした。父なる神と子なるキリスト、そして聖霊なる神は一つであることを理解するなら、7節以降のイエス様の教えはむずかしくありません。しかし、三位一体が理解できないと、ここに登場するピリポのように、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と頓珍漢な質問をすることになります。イエス様はピリポに「父なる神とわたしは一つ」だと繰り返し教えておられます。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。


 イエス様は三位一体の教えを主張しつつ、父なる神様に対する絶大な尊敬と信頼を示し、父なる神様の御心を行おうとしていることを証しされています。
 「父が子によって栄光をお受けになるためです。」 13節
 「父はわたしよりも偉大な方だからです。」 28節後半
 「わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っている・・」 31節
 しかし、うがった見方をするなら、三位一体の神であるキリストが、父なる神を尊敬しているというのは何か不自然に聞こえるでしょう。神であるキリストが「父はわたしより偉大です」と言うのはおかしいのでは?と。それでこの箇所が、三位一体を否定する異端が用いる聖句となっています。
 また、聖書はキリストのことを初めから「神のひとり子」として記しています。ではキリストは神でありながら、なぜ神の子なのでしょうか?神が神を産むということがあり得るのでしょうか?そもそもマリヤという女性のからだを借りて生まれてくる必要があったのでしょうか?・・・・その理解の助けになる御言葉は、ピリピ2章6-9節です。
ピリピ2:6-9 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 イエス・キリストが人の姿を取られた最大の目的は、十字架に架かり、その血を流し、罪の贖いを完成するためでした。私たちが受けなければならない刑罰を身代わりとなって受けるために、神という立場を捨てて、人として生まれなければならなかったのです。キリストは父と同じ権威と栄光を持っておられたのですが、人を救うためにそれを捨てられたのです。「父は自分よりも偉大です」と言われた理由はここにあり、三位一体を否定されているのではありません。

 同じように、「神の子」という立場は、父なる神とキリストの密接な関係を私たちが理解するためです。「父と子」という関係だけが父なる神とキリストの関係をよく表しているのです。また、キリストが「神の子」と呼ばれているのは、私たちに信仰を教えるためでもあります。へブル12章2節に、キリストは「信仰の創始者」だと書かれています。子という立場をとられ、父なる神を信じ、尊敬し、信頼し、その御心を行っていくことによって信仰者の模範となられたのです。

二、 子として

 世界の人口はもうすぐ70億人(2011年)を突破するそうです。その約四人に一人は父親と呼ばれる人です。当たり前のことですが父親がいない人は一人もいません。世界中に70億人の人がいても、あなたが父と呼べる人はただ一人だけです。
 皆さんの父親はどんな人でしょうか?すでに亡くなられたという方は、あなたの父親はどんな人だったでしょうか?父親を尊敬しますと言える人はとても幸せな人です。

 父親に対する接し方を、私たちはイエス様に習うことができます。イエス様の言動のすべては父なる神様の栄光のためでした。父の御心を人々に示し、父の御心に従って十字架の道を歩まれました。そして父の栄光のために、私たちの祈りにこたえることを約束されました。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
 父親に敬意を払うことは大切なことです。それは神様が与えられた権威だからです。「親の恥は子の恥、子の恥は親の恥」と言うように、親の悪口を言う人は、自分自身をみじめな人間だと言っていることになるのです。

三、父として

 天の父のように尊厳を持ち、完全な愛を持つ父親になりたいと願いますが、現実はなかなかそういきません。仕事で疲れて帰ってくると、「トド」のようになってしまいます。それは家族の長として反省すべき点でしょう。父親の役割、使命は、汗を流して仕事をすることです。それが人間が創造された時からの男性の役目です。男という漢字は、田んぼの力と書きます。父という漢字はつるはし、石斧のマークです。若いときから仕事をして、父親になったなら、さらに仕事をして家族を養うのです。労働は男性に与えられた使命です。ですから仕事を通して神様の栄光を現わすことが男性に求められていることなのです。

 職業の中で、医師や音楽家などは証する機会や場があるので神様の栄光を現しやすいでしょう。しかし、仕事の多くは同じ作業の繰り返しであったり、機械に向き合うだけの仕事であったりで、どうやって神様の栄光を現わすことができるのかわからない、という人も多いでしょう。しかし、そのような作業の中でも怠らず、忠実に仕事を続けていくなら「信頼」を得ることができるでしょう。心の中で主をほめたたえながら仕事をすることもできるでしょう。得た収入で家族を支え、神様に献金をして主の栄光を現わすことができるでしょう。つまらないと思う仕事も、考え方を変えるだけで、案外、楽しいものなってきます。
 「こんな仕事では神様の栄光を現わせない」という人は、次の聖書のことばを思い出してください。
Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
 特別な仕事だけが神様の栄光を現わすのではありません。毎日の繰り返しが神様の栄光につながっていくのです。それがわかるなら、定年になって、もうあなたは仕事をしなくてもよいと言われても、歳を取って体が動かなくなっても、神様の栄光を現わすことができるのです。

 聖書の中で父親に対する教えは多くはありませんが、妻を愛すること、子供を怒らせないようにして教え育てることが命じられています。
エペ ソ5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
コロサイ3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
Tペテロ 3:7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。
エペソ 6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
コロサイ 3:21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。


 お父様方。神様があなたに与えられた家族こそ、まずあなたが最初に愛さなければならない人です。あなたの隣人を愛する前にあなたの家族を愛してください。そうすると、隣人も愛することができるようになります。

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