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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書15章1-8節「わたしにとどまりなさい」


 本日の聖書箇所も最後の晩餐の席での話の続きと考えてよいでしょう。この晩餐の席でイエス様は従い続けてきた弟子たちに御自身の愛を残らず示されました。ただ一人、イスカリオテ・ユダは途中でこの席を立って、イエス様を裏切るために出ていったので、弟子たちの数は11人となっていました。イエス様は彼らに、父なる神様の御心を余すところなく伝えようとされます。そして、後に彼らがキリストの弟子として宣教することを知っておられたので、彼らを励ますためにいくつかの約束を与えられました。それは、@天国での祝福の約束、A彼らを迎えに来るという約束、B聖霊を与える約束、Cいつもあなたがたと共にいる、という約束でした。そして15章においても、迫害の時代を見越し、彼らを励ますためにぶどうの木のたとえを用いて語られました。「わたしにとどまりなさい」と。

一、葡萄の木のたとえ

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
 このたとえでは、ぶどうの木はイエス・キリスト、農夫は父なる神様、そしてぶどうの枝はあなたがたです、と解き明かされています。ぶどうのたとえは聖書中、幾度か用いられています。旧約聖書ではイスラエルのことをぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。
イザヤ5:1 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
5:2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
5:3 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
5:4 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
5:5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
5:6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
5:7 まことに、万軍の【主】のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。

 詩篇80篇、エレミヤ2章でも同様です。たとえの意味するところは、神様がイスラエルという「良いぶどうの木」を植えられたのに、悪いぶどう、腐れたぶどうができてしまった、雑種のぶどうの木に変わってしまったと、イスラエルの不信仰を嘆いておられる神様の悲しみを表しています。

 ここでイエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」と宣言されました。旧約聖書に慣れ親しんでいた弟子たちの中には「ぶどうの木はイスラエルではなかったのか?」と考えた弟子もいたでしょう。イエス様のことばを裏返すなら、イスラエルは偽物のぶどうの木だったのでしょうか?ーーそうではありません。イスラエルは偽物のぶどうの木というのではなく、目に見えるこの地上で神様が植えられたぶどうの木だったのです。
 イエス・キリストが「わたしはまことのぶどうの木です」と言われたのは、霊的なぶどうの木であり、天上のぶどうの木、神様の御心のぶどうの木という意味です。それは今までヨハネによる福音書の中で幾度も用いられてきた教えと同じです。「わたしは天から下ってきた生けるパンです」「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物です」とイエス様はご自身のことを示されました。以前もお話ししましたが、ヨハネによる福音書の中では二元論的な考え方で説明されていて、地上のものと天上のもの、光と暗闇、肉的なものと霊的なものをいつも対比させて神様の真理を表しています。同じように、地上のぶどうの木はイスラエルで、天上のぶどうの木がイエス・キリストです。イエス様が「わたしはまことのぶどうの木です」と言われたのは、ご自身が神様の御心を完全に現わす霊的真理に立った葡萄の木であることを示されているのです。

二、たとえから学ぶこと

 それでは「わたしはまことのぶどうの木です」と言うことによってイエス様は私たちに何を教えようとされているのでしょうか?このたとえから何を学ぶことができるのでしょうか?
@ 神様から祝福をいただくための秘訣
 ひとつ目は、私たちが神様から祝福をいただくための秘訣を教えられています。旧約時代ではイスラエルの民となることが祝福にあずかる方法でした。イスラエルがぶどうの木として植えられた(選ばれた民として)ことは神様の祝福であり、神様がイスラエルに与えられた律法を守り行うことが祝福の道でした。イスラエルの民として生きること自体が、神様の祝福だったのです。(外国人が信仰を持った時には割礼を受けてイスラエルの民に加えられました。)しかし残念なことにイスラエルは神様の律法に聞き従わず、外国の神々にあこがれ、偶像を作って拝み、不品行を重ねてしまいました。遣わされた預言者たちを殺害し、神様の恵みを拒んでしまったため、祝福は取り去られてしまいました。イスラエルはさばかれて、捕囚の民、離散の民となり、教会時代に入っても戦争と迫害の繰り返しでした。神様はどれほどイスラエルというぶどうの木を惜しまれているでしょう。彼らが悔い改めて御自身に立ち返ることを神様は繰り返し語られ、願っておられます。
 しかし、イエス・キリストというぶどうの木は神様の完全な祝福の木です。神様の祝福をいただくための方法です。この木にとどまっているなら神様の祝福をいただき、実を結ぶことが約束されているのです。

A 手入れをされる
 二つ目に教えられることは、父なる神様が私たちを手入れしてくださるということです。イエス様はここで、ぶどう園の農夫がする農作業を話されながら真理を伝えようとしておられます。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
 ぶどうの実を結ばせたいなら、剪定し、間引きをし、手入れしなければなりません。父なる神様は私たちが実を結ぶために手入れをしてくださるのです。しかし、聖書解釈ということを考えるなら、ここで問題となるのは「取り除き」ということです。突き詰めていくなら、クリスチャンでも役に立たない人は見捨てられるということでしょうか?6節では「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」とまで言われています。実を結ばないキリスト者を神様は切り捨てられるということなのでしょうか?・・・・いいえ、決して神様はそのようなお方ではありません。ここでイエス様は先ほど話した旧約時代の堕落したイスラエルや、イスカリオテ・ユダの事を念頭に置いて語られていると言えます。形だけは神様に従っているように見えるのですが、自分の欲のために主を裏切り、堕落してしまう人ーーそのような人に神様の祝福はありません。
 しかし、ほかの11人の弟子たちは違いました。3節で、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と語られています。「きよい」と訳されているのは宗教的な意味で用いられる言葉です。決して罪を犯さなくなったわけではありませんが、イエス様のことばによってきよいと判断されているのです。当然のことながら、イエス様が話されたことばを聞いただけでは何も変わりません。彼らはイエス様のことばを聞いて信じたので、きよいと宣言されているのです。
 また、「きよい」と訳されたギリシャ語は、2節の「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」のところの「刈り込み」という言葉と同じです。新改訳では「刈り込みを」と意味をくみ取りすぎた訳となっていますが、別訳では「きれいにする、手入れをする」と訳されています。つまり、11人の弟子たちは実を結ぶために父なる神様によって手入れをされ、きれいにきよくされているのです。それは彼らがイエス・キリストのことばを聞いて信じたからです。

 では私たちはどうでしょう。自分を見て、きれいだと思うでしょうか?手入れがよくされていると思うでしょうか?ーー顔かたちのことではなく、神様の前にきよめられているかということです。私たちが実をならせるぶどうの枝となるためには、手入れされる必要があります。どういうふうに手入れされるのかと言うと、「御言葉を聞いて信じる」ことによるのです。御言葉こそ私たちの心の罪汚れをきよめる薬です。あなたの信仰生活が虫の付いた葉っぱのように枯れ果ててしまわないように、御言葉を聞き、信じることによってきれいに整えられなければなりません。

B イエス様にとどまり、実をつける
 三つ目に教えられることは、イエス様にとどまるということです。イエス様は、きよめられた弟子たちに対して次のステップとして「わたしにとどまりなさい」と何度も命じておられます。ぶどうの枝がぶどうの木にしっかりつながっているように、あなたがたもキリストというぶどうの木にしっかりつながっていなさいと。ぶどうの枝がぶどうの木から離れてしまったなら、実を結ぶどころか、枝はたちまちしおれて枯れてしまいます。しかし、つながっていれば、十分な栄養を木から与えられ、しっかりと実を結ぶことができます。
(とどまると訳されたのはメノーというギリシャ語で、「滞在しつつづける、居続ける、住み続ける」とも訳せる言葉です。)

 このぶどうの木のたとえは、神様と私たちのつながりを見事に表しているたとえです。実際のぶどうの木と枝のつながりはとても強く、簡単には離れません。枝が長く伸びてもしっかりつながっていて、先のほうでも実を結びます。枝である私たちに、「ぶどうの木であるキリストにとどまりなさい」と命じられているのですが、それは決して難しいことではありません。なぜならぶどうの木が枝を支えてくれているからです。枝が木にとどまるための努力は要りません。つまり、キリストにとどまるために私たちの頑張りや、修行や犠牲などは必要ではないのです。ただ、つながっていればよいのです。ですから、私たちは神様に向かって「わたしを救ってください」と何度も願う必要がありません。「わたしは心をつくし、精神をつくし、思いをつくしてあなたに従いますから、わたしを祝福してください」としつこく祈る必要がありません。なぜならイエス様につながっていることが祝福であり、必要な栄養は幹を通して自然に運ばれてくるからです。このことがわかるなら、信仰生活は楽になります。
 父なる神様が農夫であり、あなたを手入れしてくださいます。そして必要な栄養と祝福はイエス様という木から毎日毎日、絶えることなく頂くことができるのです。

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