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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書15章9-17節「わたしの愛の中にとどまりなさい」


 主イエス・キリストはぶどうの木のたとえにより、神様の祝福はイエス様ご自身から流れ来ることを教えられました。旧約時代においてはその管としての役目はイスラエルが負っていました。しかし、イスラエルは不信仰の罪によって実がないぶどうの木となってしまいました。イエス様はまことのぶどうの木として来られました。教会時代において神様の祝福は、イエス・キリストにとどまる人に与えられるのです。

1.イエス様の愛にとどまる

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

 ぶどうの木のたとえが続き、イエス様にとどまるということがどういうことかを説明されています。イエス様にとどまるということは、イエス様の愛の中にとどまることです。そして10節で、イエス様の愛の中にとどまるということは、イエス様の戒めを守ることだと教えられています。これを聞くと私たちは眉間にしわを寄せてしまいます。それは旧約聖書時代の律法主義を思い出すからです。イエス様の教えも結局は命令に従わなければ神様の祝福がないと教えているのか?それなら私には出来ない!と尻込みしてしまうからです。戒めを厳守しなければならないなら、それは奴隷と同じであり、喜びのない信仰生活です。しかし、11節のイエス様のことばに救われます。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
 イエス様の目的は私たちの喜びが満たされるためであるとおっしゃっています。どういうことでしょうか?12節ではっきりします。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
 イエス様の戒めとは、「互いに愛し合うこと」なのです。これはイエス様の今までの教えと全く変わることがありません。愛するということは計ることができないものです。「殺すな、盗むな、姦淫するな、うそをつくな」と命じられるなら、違反者には刑罰が与えられます。しかし、「愛しなさい」という時にそれは人によって愛し方も違うでしょうし、どれだけ愛したかを計ることはできません。従って「愛しなさい」という戒めにはさばきや刑罰が伴わないのです。

2.互いに愛し合う


@誰を愛するのか?
「互いに愛し合いなさい」と命じられていますが、だれを愛すべきなのでしょう?・・この箇所だけではわかりにくいですが、13章34-35節ではっきりしています。
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 弟子同士、つまり信仰の家族を愛しなさいと命じられています。すべての人を愛しなさいと主は命じてはおられません。確かにイエス様はすべての人を愛し、ご自身をお捨てになったのですが、私たちはそのような神の愛を持ち合わせてはいません。すべての人、隣人を愛することは神様の御心ですが、そこまでイエス様は命じられていないのです。しかし、信仰の家族を愛することは難しいことではありません。同じ救いにあずかり、同じ主を愛し、同じ御霊をいただき、同じ目標を持って歩んでいるからです。国籍が違っても、クリスチャンは天国という同じ国籍を持つ神の家族です。ですからクリスチャン同士が愛し合うことは難しいことではありません。

A 愛せない人はどうしたらよい?
 しかし、現実はどうでしょうか?イエス様はなぜ何度もしつこく弟子たちに「愛し合いなさい」と命じられたのでしょうか?・・・・実際には主にある兄弟姉妹を愛することが難しいからです。同じクリスチャン同志でも、同じ主を愛し、同じ教会に集っていても愛せないからです。
 ある時に一人のクリスチャンの方が、「私はどうしてもあの兄弟が赦せません。あの人がクリスチャンだと思うと、もう教会も行きたくなくなってしまいます。愛せない私が間違っているのでしょうか?」と涙ながらに悩みを打ち明けられました。確かにクリスチャンも人間ですから、性格が合わない人、考え方が違う人、交わっていてもイライラするばかりで霊的祝福がない人がいるのが現実です。そのようなときに、イエス様の戒めはとても困難に感じます。愛せない自分がみじめで情けなく思います。どうしたらよいでしょうか?

 その答えはイエス様にとどまり、愛するということをイエス様から学ぶことです。愛と恋は違います。恋するのは感情です。自分では抑えきれない感情です。恋しようと思って恋する人はいません。恋するのに努力は要りません。しかし愛するというのは、感情ではなく、自分の意志です。愛そうとしなければ私たちは愛することができません。愛は努力しなければ続かないのです。ですから愛するためには犠牲が必要です。自分が喜ぶために愛するのでなく、楽しくなくてもつらくても愛するのが本当の愛です。ですから愛することは難しいのです。真実の愛について私たちはイエス様から学ぶ必要があります。

B 人を愛する模範はイエス様 
 人を愛するための模範はイエス様です。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと・・・」
 イエス様はどのように弟子たちを愛されたのでしょうか?弟子たちがイエス様に従順に仕え、貢物を持ってきたから愛されたのでしょうか?ーーそうではありません。イエス様は何のとりえもない弟子たちを選ばれました。ガリラヤという田舎町に住んでいた名もない漁師たち、嫌われ者の取税人らを選び、12使徒として任命されました。真理を教えても、しるしを見せてもなかなか悟らない弟子たちにイライラしながらも彼らを愛し、導かれました。弟子たちが仕えたというよりイエス様が彼らに仕えられたというの正解でしょう。イエス様は弟子たちのことを、しもべと呼ばずに、友と呼ばれています。そしてその友のためにいのちを捨てられたのです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 友のためにいのちを捨てるほどの愛・・それがイエス様の愛でした。なんの見返りも期待しない愛、無償の愛をもってイエス様は弟子たちを愛し、彼らの汚れた足を洗い、彼らに永遠のいのちを与えるために十字架に架かられ御自身のいのちを捨てられました。それがイエス様の示された愛であり、あなたがたも同じように愛し合いなさいと命じられています。
 今、主にある兄弟姉妹を愛せないから自分は駄目なクリスチャンだと思わないでください。ただ、愛そうとすることをやめないでください。愛そうと努めることをやめることは、イエス様の愛にとどまらないことです。愛そうと努め続けることこそイエス様の愛にとどまることです。

3.行って実を結ぶ

 兄弟姉妹を愛するために大切なことを、もう一つイエス様が教えてくださいました。それは私たちがみなイエス様によって選ばれ、実を結ぶために救われているという主のご計画を知ることです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
 ちょうど大会社の入社面接試験に似ていると思います。その大会社で働きたいと思い、多くの人が面接を受けます。面接官はその人の資格や経験などを見ながら、会社のこの部署に必要だと思ったならその人を採用します。計算が得意な人は経理部へ、機械に詳しい人なら技術部へ、人を指導する力があると思えば、総務や人事部へと振り分けます。必要な部署に必要な人数採用するのです。そして入社日には社長は新人社員を全社員に紹介し、温かく歓迎し、仲良く仕事を教えてやってください、と社員にお願いするのです。
 イエス様も大会社の社長と同じです。いのちのことば社というクリスチャン書店がありますが、ここでは「神のことば社」としましょう。その社長がイエス様です。
○社長が自ら一人一人を選び、救いに導いてくださいます。私たちは自分の才能や力で神のことば社の社員になったと思うのですが、選んでくださったのはイエス様です。
○何のために神のことば社に入ったのでしょうか?「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」とはっきりしています。つまり福音宣教のためです。福音を伝えて救われる人々が起こされるためです。このためにあなたと他の兄弟姉妹は選ばれたのです。
○入社した社員に会社は制服を支給し、名札を与え、必要なデスクやロッカーや工具などを与えます。同じように私たちが神のことば社で働き、福音を伝えるために必要なものがあるなら、何でも求めなさいとイエス様はおっしゃっています。これが16節後半のイエス様のことばの意味です。必要でないものは与えられませんが、あなたが実を結ぶために必要なものは何でも与えられると約束されています。素晴らしい会社ではありませんか。
○会社は新入社員に対して、会社の規則、規定などを教え、仕事のやり方を説明します。イエス社長の規則は何でしょうか?
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
 ただこれだけなのです。必要でない兄弟姉妹はひとりもいません。イエス様が「わたしはこの人を必要としています。大切に思っています。この人のためにわたしは大きな犠牲を払っています。どうかあなたもこの社員を愛してください」とお願いされているのです。愛さないわけにはいきません。

 イエス・キリストという社長自ら、あなたに声をかけて選ばれ、あなたが入社したことを喜び、あなたの働きに期待し、あなたを社員としてではなく家族として、友として愛しておられます。このような会社で働くことは本当に価値のある生き方だと私は思います。喜んで働きたいと思います。もし「あなたには何も期待していません。何も努力する必要はありません。気が向いた時だけ出勤してください。」と言われたら、働く気力は一瞬で消え去ってしまうでしょう。
 「頑張らなくていいですよ。嫌だったら学校なんて行かなくてもいい、会社も嫌なら辞めてもいい、何もしなくてもあなたらしく生きていたらいい。」――気落ちした人にこんなことが言われる時代です。しかし、それは傷ついた人のセルフイメージを低下させ、さらに生きる気力を取り去ってしまうことになります。しかしイエス様のカウンセリングは違います。その人に正しいセルフイメージを与え、使命と責任を与えられます。あなたのいのちは全世界の富よりも価値があること。創造者があなたにいのちを与えて生まれさせ、愛しておられること。あなたにしかできない特別な目的のため生かされていること。愛されることより愛することが大切だということーーこれが聖書的カウンセリングです。精神的、肉体的に精一杯力を尽くしてきた人には当然休みが必要です。その休みの間に気力と体力を回復させるだけでなく、正しい指針と目標を持ち、軌道修正することが重要です。
 自分の周りを見るときに私たちは傷ついたり、みじめさを感じたりします。また、自分の内側に目を向けて立ち直ろうとしても、それは闇の中を手探りで進もうとするようなものです。ですから私たちは目を上に向けるべきです。そこにはあなたを導いておられる神様と、慰め主であり真実なカウンセラーであるイエス様がおられます。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」とイエス様が約束されています。その救い主が同時に、「実を結びために働いてください」とお願いされています。あなたが受けた苦しみが大きければ大きいほど、あなたの結ぶ実は多いのです。イエス様はご自分の前に置かれた苦しみをものともせず、ご自分を捨て、十字架に架かり、そのいのちまでささげられました。主が受けられた苦しみは、多くの実と変えられたのです。この人々を救う働きに加わるために私たちも救われたのです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

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