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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書15章18節ー16章4節「迫害の時に備えて」


 最後の晩餐の席は、イエス様が弟子たちを教えられた最後の時であり、翌日にはイエス・キリストは十字架にかけられて処刑されてしまいます。ですからイエス様の告別説教と言えるでしょう。(墓のなかよりよみがえられ、40日後に天に帰られましたので、最後の告別説教はその時でした)この最後の晩餐での説教は、山の上で語られた説教と同様に霊的示唆に富んでおり、神様の御心を知るためにとても重要な箇所となっています。山上の説教が神の律法の解きあかしと神の御心を明らかにされたのに対し、この最後の晩餐でのイエス様の教えは、これからの教会時代を預言し、弟子たちに約束を与え、弟子たちを励ますことばで満ちています。

1.世は憎むようになる

15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
15:20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
15:21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
 「世はあなたがたを憎むようになる」ーそうイエス様は断言されました。このイエス様の預言のことばは歴史の中ではっきりと証明されてきました。弟子たちは会堂から追放され(ユダヤ人社会から追い出され)、投獄され、殺されました。ヨハネがこの福音書を書いた時は晩年(90歳くらいの時)でしたが、すでに他の10人の使徒たちは皆、殉教の死を遂げていました。ですからヨハネはイエス様の預言の成就を実際に見ていたのです。

 キリスト教の歴史を学ぶと、それはまさに迫害の連続でした。今でこそキリスト教は世界最大の宗教と言われるようになりましたが、イスラム圏や共産主義の国々ではいまだに激しい弾圧が続いています。宣教師はそれらの国々に入ることすらできません。日本でも国家としての迫害が長きに渡り行われました。世界大戦下では国粋主義が強まっていく中、大日本帝国は神社を増やしていき、そして神社参拝を強要しました。残念なことに、多くのプロテスタント教会がその強制の前に挫折して神社参拝を認めてしまいました。しかし聖書のことばに従った人たちもいました。1933年、美濃ミッションの教会員の子供たち2名が大垣市の小学校での伊勢神宮参拝を拒否したことから教育界、政界、住民を巻き込んだ大きな問題に発展していきました。校長や職員から何度も親と子供たちは呼び出され、脅迫に近い質問をされました。子供たちは停学処分を受け、小学校を辞めざるおえなくなりました。教会も地域住民から激しく非難され、排斥運動がおこり、彼らを責める歌まで作られて歌われたそうです。神社参拝を否認する聖書主義教会は強制的に解散させられ、神社参拝を拒否した牧師たちをはじめ、多くのクリスチャンが治安維持法違反で投獄されました。獄中で殉教した牧師、信者たちも多かったのです。

2.世が憎む理由

 なぜ人々がクリスチャンを憎むのか、その理由をイエス様は説明されています。
@ 人々はキリストを憎むからあなたがたを憎むのです。18節
 ユダヤ人たちは「父とわたしは一つです」と言われたイエス様のことばに反発しました。人間は神ではないという自分たちの信念のゆえにイエス・キリストを憎みました。「人間は神にはならない」という考えは正しいのです。人は死んで後、神や仏になることはありませんし、死者は生きている人間に対して何の影響も与えることができません。怨念や因縁、たたりなどは人を脅して陥れるための罠でしかありません。しかし、全能の神が望まれたなら人の姿を取られることはできるのです。このことにユダヤ人たちは気が付きませんでした。それで多くの群衆がキリストに従って行くのを見たときに、彼らはねたみの心からイエス・キリストを殺そうと計りました。

A あなたがたがこの世のものでないから憎むのです。19節
 この世のものでないとは、聖霊によって新しく生まれ変わり、神の家族の一員となり、天の国籍を持つ人に変えられたということです。その変化を人々が見るとき憎むのです。
Tペテロ4:3-4 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

B 彼らは神もイエス・キリストも知らないから憎むのです。21節、16章3節
 霊的な無知のために人々はキリスト者を迫害します。神がどういうお方なのかを彼らは知りません。神の御計画を知りません。そしてイエス・キリストが誰なのかを知りません。だから彼らはキリストを信じる人々を迫害するのです。

 日本では、いまだに多くの人々の心の中に、キリスト教は外国の宗教であり、そんな宗教に入ったら後ろ指をさされる人間になると思われています。私は18歳の時にクリスチャンになりましたが、家族や親せきの方々から散々厳しく言われました。父親からは「はよーそがん宗教はやめんか!」と怒鳴られ、いとこから「お前は狐に取りつかれとっちゃなかと?」と言われました。叔母からは「勉強のし過ぎで頭のおかしゅーなっとっとばい!」と言われ、別の叔母からは「親や親せきば悲しませるような宗教が、良か宗教のはずがなか!」と言われました。それまでずっと家族を愛し、親せきとも仲良くやってきて、お世話になった方たちでしたから、キリストを信じた途端にそんなことを言われたのですから大きなショックを受けました。家族も親戚も私のことが嫌いで言っているのではなく、変な宗教から立ち返ってほしいという願いから説得しようとしているのがわかっていましたので、イエス様に従うことはなんと苦しいことかと思いました。人々はイエス・キリストを知らないからキリスト者を迫害するのです。

 皆さんの中にも苦い経験や嫌な思いをされた方々がおられるでしょう。仏壇に手を合わせなくなったことで家族から文句を言われたり、「線香の一つもあげれないのか?」と怒鳴られたりするでしょう。しかし、イエス様の十字架によって救われた私たちは、偶像の神々に手を合わせて拝むことは決してあってはならないことです。だから「世はあなたがたを憎むのです」

3.世が憎んだ結果

 人々はイエス・キリストを知らないのでキリスト者を迫害します。しかし、福音書に登場するユダヤ人たちは自分たちの耳でイエス様のことばを聞き、そのしるしを自分の目で見たのに、それでも信じませんでした。パリサイ人達は「イエスは悪霊のかしらの力によってしるしを行っている!」と判断しました。彼らには弁解の余地がないと主は言われています。彼らは知らなかったのではなく、知ろうとしなかったのです。
15:22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
15:23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
15:24 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
15:25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。


 もしユダヤ人たちがイエス様のことばを聞かなかったのなら、彼らに罪はなかったのです。(イエス・キリストを否んだという罪のこと) もしも、彼らが一度も福音を聞かず、主のしるしを一度も見なかったのなら彼らの受ける刑罰は軽くされたでしょう。しかし、ユダヤ人たちは御言葉を聞いて、しるしを見たのに信じませんでした。だから彼らの罪は大きいのです。
 現在でも同じことが言えます。もし人がその生涯で福音を一度も聞くことがなくて死んだなら、その人はどうなるでしょう?ーー罪人ですから天国へ行くことはできません。ただ、その人は犯した罪の分だけの刑罰で済みます。しかし、福音を聞いてそのうえで神の御言葉を否んだなら、その人の受けるさばきはソドムとゴモラの受ける刑罰よりも大きいものになるのです。

 ですから福音を宣べ伝える人は、心して語らなければなりません。永遠のさばきに関わるのですから。また、福音を聞く人も心して聞かなければなりません。福音のことばは、全能の神がその愛するひとり子を犠牲にまでして与えられたメッセージだからです。この福音に、あなたの永遠のいのちが懸かっているのです。

4.憎まれた者の生き方

 主の御言葉の通りに生きようとするとき、キリスト者は憎まれます。それで、イエス様は次のように弟子たちを励まされました。
@つまずかない
16:1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
16:3 彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。
16:4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。

 もし、世の人々の反感を買わないため世の人と仲良く楽しくやっていこうとするなら、そこには必ず妥協が生まれ、主の御心と違った生き方を選ぶことになります。人の言葉を恐れ「わたしはイエスなど知らない」と言ったペテロと同じ失敗をしてしまいます。それはあなたにとって大きな後悔となるでしょう。ですからクリスチャンは憎まれることを覚悟しておくべきです。
Uテモテ 3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

A喜びなさい
 憎まれることは誰にとってもつらいことですが、イエス様が山上の垂訓で語られたことばを思い出しましょう。
マタイ 5:10-12 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
 あなたが迫害されるとき、喜び踊りなさいとイエス様は語られました。なんという教えでしょう。この世の人には決して理解できない教えです。キリスト者は「この世のものでなく、イエス様が世から選び出された」のであり、大きな報いが用意されているのです。

B祈りなさい
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
ローマ 12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

 迫害されるとき、迫害する人たちを憎み、彼らがのろわれて取り除かれることを願う人もあるでしょう。しかしイエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じています。それは私たちもイエス様を十字架に付けた者なのに、今はすべての罪が赦されて神様の祝福をいただいているからです。イエス様が十字架の上で、御自分を十字架につけた人々のために祈られた祈りは、キリスト者にとって最大の模範です。
ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

C あかししなさい 
15:25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
 キリストにある者は憎まれることが預言され定められているのですから、私たちは臆することなく、聖霊の力によって証しをしていくべきです。迫害するもののために祈り、証しを続けるのです。

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