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心に響く聖書の言葉


「悲しみは喜びに変わる」ヨハネによる福音書16章5-22節


1.遺言

 最後の晩餐の説教は、主イエス・キリストの告別説教と言えるものでした。そして今日の聖書箇所は、イエス様の遺言と言えることばです。遺言には遺産相続が付きものですが、イエス様も偉大な遺産を残されました。
16:5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
16:6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 イエス様は弟子たちに遺産相続として「聖霊を与える」という約束をされました。

 7節を読んで疑問に思うことは、なぜイエス様が去らなければ聖霊は来ないのでしょうか?どうしてイエス様と聖霊がともにいることができないのでしょうか?−−それは、イエス様が去っていかなければ新しい時代(教会時代)が来ないからです。「わたしが去って行かなければ」と言われるのは、つまり十字架の贖いを終えて天に帰られることです。十字架の御わざを完成することにより、福音を信じる信仰によって救われる教会時代の準備が整います。そして教会時代をスタートさせるのは、聖霊降臨によります。そのため教会時代を聖霊時代とも呼びます。聖霊が福音を信じる人の内に住まれる時代であり、これが教会時代の特徴として神様が定められた時代区分なのです。旧約時代においても聖霊の働きはありましたが、それは常に一時的でした。ダビデ王が大きな罪を犯したときに彼は次のように祈りました。
詩篇51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
 ダビデは聖霊の働きが一時的であることを知っていて、聖霊が自分から取り去られることを恐れました。しかし教会時代においては、与えられた聖霊が取り去られることはありません。つまり、救いは決して無くなることがないのです。
エペソ1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
 イエス様は新しい聖霊内住の時代が到来することを知っておられました。それが父なる神様の御心だと知っておられました。人の堕落によってゆがめられた世界を神様は御子キリストによって修正し、回復させられます。そして教会時代を通して新しい信仰の民を導かれているのです。

 聖霊が内住する教会時代はもうすぐ終わりを告げます。そのときイエス様が再臨されると約束されています。主が再び帰って来られるのを待ち望みつつ、その時まで福音宣教することがキリスト者に求められています。その再臨の日を定めるのは神様であり、人間が定めることはできません。ただしイエス様は「世の終わりの前兆をよく見て備えなさい」と命じられましたから、ある程度の予想がつきます。イスラエルの建国、世界戦争、地震、飢饉、偽キリストの出現などの前兆を見るなら、世の終わりが近いことがわかります。

2.聖霊 8−15節

 8−15節までは聖霊の働きについての説明です。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
 聖霊は目に見えません。人間の霊が見えないのと同じです。それは風のようです。風を見ることはできませんが、私たちは風が吹いていることを五感を通して感じることができます。木の枝が揺れるのを見て、風の音を聞いて、体に風が当たるのを感じて風が吹いていることを知ります。聖霊の働きも同じです。聖霊を与えられている人にはその働きを感じることができます。しかし聖霊を与えられていない人にはそれがわかりません。

 聖霊は罪について教え、義について教え、さばきについて教えます。聖霊は信仰者に働いてキリストの臨在を現します。キリストは神の真理のことばであり、罪びとにとって唯一の救いの門です。イエス・キリストを信じない者は罪と定められます。しかしよみがえられたキリストを信じる者は義と認められます。キリストが罪を贖い、復活によってサタンに勝利されたので、キリスト者はさばかれることはありません。

 13節で、聖霊は「すべての真理に導き入れます」とイエス様は教えられました。聖霊は初代教会時代に特別な働きをしました。ペンテコステの日に聖霊が降臨して教会が始まりましたが、その時には聖霊の特別な現われがありました。天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて、聖霊が与えられた人たちは異言と呼ばれる外国語を話しだし、福音を語りました。それは聖霊時代の始まりを人々が理解できるためでした。また聖霊は弟子たちに霊感を与えて、誤りのない御言葉を記させました。福音書の著者たちはイエス様の生涯と語られたことばをまとめましたが、そのときにも確実に聖霊が働かれました。それで記されたことばは、新約聖書として一字一句誤りのない神の真理のことばとしての権威を持つことができました。つまり聖霊が聖書のことばを完成させてくださったのです。そして今に至るまで、聖書とともに聖霊は働いて私たちを真理に導いておられます。

 現在では特別な聖霊の働きはなくなったといってよいでしょう。というのは、すでに聖書が完成していますので、さらに聖霊によって霊感された書簡を記させる必要がありません。また、新たに預言者を立てて将来起こることを啓示する必要もありません。宣教が広がっている今の時代においては異言の必要性はありません。歴史が証明するように聖書の成立とともに神様の特別なしるしは与えられなくなったのです。何より、しるしを求める時代は悪い時代だとイエス様が教えておられますから、私たちはしるしを求める信仰ではなく、御霊の実を結ぶ生き方を求めて歩むべきです。(現在における聖霊の働きやしるしについての詳しい考察はこちらへ⇒カリスマ運動と異言について
ガラテヤ 5:22-26 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

3.予告と約束 16-22節

 16節からもイエス様のお別れのことばが続きます。この後すぐに捕えられて十字架の苦しみを受け、死んで葬られ、そして復活することを予告されています。
16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
16:18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言った。
16:19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

※16節の御言葉は解釈が分かれます。十字架と復活のことと解釈する人、昇天と聖霊降臨のこととする人、昇天と再臨とする人があります。弟子たちに語られたことばと受け取るなら、十字架と復活を指していることになります。「しばらくすると」はミクロンというギリシャ語が用いられています。いわゆるミクロとかマイクロとい言葉の語源です。ほんのわずかな時間を表します。十字架は数時間後に起こることでしたから、まさにすぐの出来事でした。よみがえられたのもわずか三日目ですから、歴史の中ではすぐに起こった事と言えます。

 主イエスはご自身がこれから受けられる苦しみよりも、弟子たちを心配しておられます。イエス様が捕えられ処刑されてしまったと嘆いている弟子たちの姿を思い浮かべてください!すべての希望が失われ、落胆し、悲しみの淵に暗く沈んでいたでしょう。その彼らの目の前に、死からよみがえったキリストが立たれたのです。復活の主を弟子たちは自分たちの目で見たのです。その時の喜びはいかばかりだったでしょう。それまでの悲しみと落胆は一瞬にして消え去ったはずです。イエス様はそれを妊婦の産みの苦しみにたとえられました。産みの苦しみは、赤ちゃんが生まれた瞬間に喜びによって消し去られます。弟子たちもそれと同じ経験をしました。復活の主にお会いした喜びは、彼らの悲しみを消し去り、彼らのうちに生涯続いたでしょう。その喜びによって彼らは押し出され、生涯をかけて福音宣教のために働いたのです。
 この喜びは、世の人たちが経験する喜びとは違います。たとえば、人が重い病気にかかったなら悲しみますが、病気が治るとその悲しみは喜びに変わります。しかしその喜びは一時的です。なぜなら人はまた病気になり、老いて行き、誰もが死の時を迎えるからです。しかし、イエス様が約束された喜びは一時的ではありません。不完全な喜びではなく、神の真理に立つ喜びです。神の愛を知る喜びと御子による救いの喜びーーそれはまさに聖霊による喜びです。なにより罪を赦される喜びは言葉で言いあらわすことができません。この世の人が持つことのできない喜びです。その喜びを奪い去るものは何もありません。

 信仰による悲しみは必ず喜びに変わります。キリストにある者は、迫害を受けたり憎まれたりするでしょう。しかし信仰による悲しみは喜びに変わります。なぜなら信仰こそ世に勝つからです。
Tヨハネ5:3-5 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

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