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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書16章23-33節「新しい時代における祈りと患難」


 13章から続いた「最後の晩餐」での弟子たちへの告別説教は、本日の箇所までです。この二階の大広間で語られた説教の目的は、
@ 弟子たちに対するご自身の愛を示されたーー晩餐の席を用意して弟子たちとともに最後の食事をし、仕える者として弟子たちの汚れた足を洗い、主イエスはその愛を示されました。
A 新しい時代の到来とその真理を教えられたーー聖霊内住の時代、教会時代について教えられました。それは新しい命令に従って歩む新たな時代です。
B 約束を与え、迫害の時に備えて弟子たちを励まされたーー天において備えられる家、また、助け主である聖霊を与える約束をされ、「わたしの平安をあたえます」と励まされました。
 そして本日の聖書箇所は、今までイエス様が語られてきたことのまとめとなっています。

1.新しい時代のおける祈り

16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
16:25 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
 イエス様は弟子たちに素晴らしい約束をされました。「求めなさい。そうすれば受けるのです。」ーーこの約束は教会時代に生きるすべてのクリスチャンに与えられた約束です。ですから「祈りは聞かれる」と信じましょう。「必要は備えられる」と信じましょう。
 ジョージ・ミューラーの生涯について聞かれたことがあるでしょうか?彼は1805年にイギリスに生まれ、若い時から牧師として働いたのですが、当時の孤児たちがあまりにも惨めな生活を強いられ、食べるものもなく、病気にかかり、悲惨な状態にあったのを見て、孤児院設立を主に願いました。そして、本当に祈りだけによって彼は多くの孤児院を設立し、運営しました。運営は日々困窮しましたが、子供たちに食事を与えることができなかったときは一度もありませんでした。祈りの力を信じれないという人は彼の働きを紹介した本を読まれることをお勧めします。

 イエス様は祈りについて山上の垂訓の中でも同じように教えられました。「求めなさい、そうすれば与えられます。」と。その時と違う点は、「わたしの名によって求めなさい」と言われていることです。それは新しい時代には、新しい祈りの仕方があることを教えられたのです。では、旧約時代の祈りはどのようであったでしょうか?
創世記 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。
 ここに登場するセツはアダムの息子ですから、創世記の初めから人々は【主】の御名によって祈ったのです。
※「主」と訳されているヘブル語(聖4文字:テトラグラマトン)は現在ではその発音が忘れ去られています。十戒の中で『主の御名をみだりに唱えてはならない』と命じられたため、人々は聖書を朗読するときに『主』と書いてある部分に来たとき、発音せずに朗読を続けたためでした。言語学者の意見では、もともとの発音は「ヤハウエ」または「ヤーウェ」であったろうと考えられています。ユダヤ人はそれをアドナイと読み替えて現在でも朗読しています。

 新約時代の祈りは「イエス・キリストの御名によって祈りなさい」と教えられています。クリスチャンがお祈りの最後に、「イエス様の御名によって祈ります」と言う理由がここにあります。私たちがキリストによって救われ、キリストのうちに生かされている者であるからです。イエス様は私たちの祈りの保証人、推薦人なのです。罪人の願いを神様は受け入れられませんが、イエス様の血の贖いによる保証、署名をいただくとき、祈りの価値は変わります。その祈りを父なる神は聞いてくださるのです。

 また、26節-27節を読むなら、キリストを愛する人であるなら誰でも自分の口で直接、父なる神様に祈ることができることを教えています。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
16:27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

 神様はあなたの口で祈る祈りを聞かれると約束されています。ですから、私達には人間の祭司や大祭司は必要ありません。代わりに祈ってもらう人は必要ありません。宗教改革の時に叫ばれたのは「万人祭司」という言葉です。カトリック教会で神父が信徒の祈りを取り次いでいる誤りを正し、誰もが父なる神に自分の口で直接に祈ることができると主張したのです。

 たたし、聖書は人に祈ってもらうことを否定してはいません。「互いのために祈りなさい」とあります。祈ってもらうこと、祈ってあげることも大切なことです。牧師には教会に集われる方々のために祈る使命があります。ですから、大きな悩みや困難があるときにはあなたの牧師に相談してください。牧師はあなたの魂の監督者として神様の御心を聖書から示すことができるでしょう。すべてが解決できるわけではありませんし、良きアドバイスを与えることが出来ないときもあるでしょう。しかし、牧師はあなたのために熱心に祈ってくださるでしょう。共に祈る祈りは働いて神様の恵みをいただくことができるはずです。それは私たちが主イエス・キリストの御名によって祈るからです。

2.新しい時代における患難

16:28 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
16:29 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
16:30 いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
16:32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 イエス様はたとえを用いずに弟子たちに話されました。ヨハネは記してはいませんが、他の福音書には祭司長や律法学者たちの手によって捕えられ、十字架に架けられて殺される事、そして三日目によみがえられることを弟子たちに予告されています。弟子たちはそれらを聞いて、今までぼんやりとしていたイエス様の教えを理解していきました。それで弟子たちは信仰告白をしました。「私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」

 弟子たちの信仰告白を聞いて「やっと信じてくれたのか、よかった!」とイエス様は喜ばれてはいません。それどころか「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。」と言われました。なにかイエス様の弟子たちに対する怨み言のようにさえ聞こえます。しかし決してイエス様は怒って言われているのではありません。これから起こることを知っておられたので、彼らの信仰告白を単純に喜ぶことができなかったのです。この後、数時間もすればイスカリオテ・ユダを先頭に、役人や兵士たちが暗闇のなか、たいまつを片手に武器を片手に、イエス様を捕えにやってきます。一触即発の中、恐怖のあまり弟子たちは逃げ去ってしまうことをイエス様は彼らに予告されました。また、すぐに始まる教会時代において、弟子たちに襲い掛かってくる迫害や殉教を主は知っておられました。ですからイエス様は弟子たちを励ましておられるのです。
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 
「勇敢でありなさい」は、他の日本語訳では「勇気を出しなさい」と訳されています。原語はサルソスというギリシャ語で「元気を出す、しっかりする、自信を持つ」という意味もあります。
 士師記7章にはその良い例があります。神のしもべギデオン率いるイスラエル軍とミデヤン陣が敵対していた時に、ギデオン軍は3万2千人、ミデヤン軍は数えきれぬほどの大群でした。(13万5千) その時にギデオンは神様から「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」と言われ、最終的にギデオン軍は300人で戦うことになりました。そのとき神様が言われたことは「勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」でした。この状況下で誰が恐れないで戦うことができるでしょう?自分たちの400倍以上の大軍を目の前にして、どうして勝ち目があるでしょうか?勇気を出せ!と言われても、常識を持ち合わせた人なら勇気を出せないのが当然です。しかしギデオン軍の300人は勇気を出して攻め下りました。暗闇の中での奇襲攻撃でした。ミデヤン軍は連合軍だったため混乱して同士討ちをはじめ、恐れて逃げまどいました。神はギデオン軍に大勝利を与えられました。
 神様はなぜ「勇気を出せ!」と言われたのでしょう?その理由、その裏付は何でしょうか?・・・答えは、主である神が彼らと共におられるからです。ギデオンが戦いを恐れた時に神様が言われたのは「わたしはあなたと一緒にいる」(士師記6章16節)でした。

 イエス様が弟子たちに語られたことも同じです。「勇敢でありなさい。」ーーその理由は、主イエスがあなたと共におられるからです。主イエスは世に打ち勝たれたお方、死とよみに勝利された方です。そのお方があなたと共におられるのですから、キリスト者は迫害や試練、そして死でさえ恐れる必要がありません。

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