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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書17章1〜5節「大祭司の祈り I」


 17章には最後の晩餐の席での説教を終えられたイエス様が、天に目を向け祈られた祈りが記されています。聖書の中でイエス様の祈りが記録されている箇所は数か所ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。
マタイ6:9-13 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
 しかし、「主の祈り」は祈りの模範として教えられたので、イエス様の個人的な祈りではありません。ゲツセマネの園での祈りもよく知られた祈りですが、そこでは十字架に架かられるイエス様の苦悩が記されています。
マタイ26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
 ヨハネによる福音書17章に記された祈りは、イエス様の祈りで最も長い記録となっています。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が父なる神様に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。信仰の創始者であるイエス様の祈りを知ることができるのはなんと嬉しいことでしょう。イエス様が何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。世界の救い主の祈りはどれほど清さに満ちた深い祈りでしょう。このイエス様の祈りを、三つの部分に分けて学びます。本日の聖書個所はその最初の部分です。
 1節〜5節・・・イエス様ご自身のための祈り
 6節〜19節・・・弟子たちのための祈り
 20節〜26節・・・弟子たちの働きを通して救われる人々のための祈り

1. 祈りの姿勢

17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 イエス様は祈られるとき、目を天に向けられました。このことにまず注目したいと思います。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかしイエス様の祈りの姿勢は、目を開いておられ、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書の中には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、イエス様や弟子たちがひざまずいて祈られたこと、「手を上げて祈りなさい」と教えられている箇所くらいです。ですから祈りの時にはイエス様のように目を開けて天を見上げて祈るようにするのも良いかもしれません。それでは落ち着かないという人は無理に目を開けなくてもよいでしょう。祈りは心でするのですから、決まったフォームはありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださるはずです。

 ただ、「祈りの人」と呼ばれてきた信仰の先輩たちの意見に耳を傾けるなら、静まることのできる場所を選んで、朝早く起きて祈ること、眠くならないならないように顔を洗い、身なりを整えて祈ることが勧められています。実践されたら素晴らしい恵みを受けることでしょう。いずれにせよ、あなたの生活スタイルの中で最も静まれる時間を祈りの時とされることをお勧めします。イエス様はよく、祈りのために、夜、山に登って行かれ夜を明かされたと記されています。多忙なイエス様にとって山に登ることしか一人で静まる方法がなかったのでしょう。ですから、あなたにとって最適な祈りの場所、祈りの時を見つけられると良いでしょう。
(参照)詩篇 63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
ダニエル 6:10 ダニエルは、──彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
ダニエル 9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
Tテモテ 2:8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
ルカ 6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。


2. 父への祈り
 イエス様の祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。このことばにはイエス様の深い思いが込められています。「時」と訳されている語は「ホラ」というギリシャ語が用いられており、時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、イエス様は「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」です。
 世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまいました。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる・・これが神様が望まれ御計画されたことです。2−3節はそのことを説明しています。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 その「大いなる時」が来たことをイエス様は宣言されました。

3. 御自身のための祈り

 イエス様はご自身のためには、ただ一つのことを父なる神様に願っておられます。それは「栄光で輝かせてください」です。もともとイエス様が持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間として世に下ってこられました。その目的は父なる神様の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためです。

 イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられるーーそれは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、あなたが神様の立場になったときのことを考えてみるとよいでしょう。数年前に「ブルースオールマイティー」という映画が上映されました。人生がちっともうまくいかない主人公(ジム・キャリー)が登場し、神様にありったけの文句を言うと、その翌日、モーガン・フリーマン演ずる神様が清掃員の姿で主人公の前に現れて、文句ばかりを言う主人公に対して、「それならお前が代わりにやりなさい」と言って神としての立場と全能の力を彼に与えられるという映画です。
 もしあなたが神となったらどうするでしょうか?自分の幸せのために全能の力を使うでしょうか?それとも人々の幸せのために全能の力を使うでしょうか?ーーこの映画の中でも全能の力を得た主人公は初めのうちは自分の欲望を満たすために奇跡を行います。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。やりたい放題です。しかしだんだんとそのむなしさに気が付いていきます。それは恋人が彼から離れていってしまったからです。すべてのものを手に入れても、人に愛されなければむなしいということに気づいたのです。
 全能者であるなら、どんなものでも手に入れることができます。金も衣食住も心配いりません。あって当然ですからそこには感動や喜びはありません。では全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか?・・・聖書には素晴らしい真理のことばが記されていて、それは愛だと教えています。
Tコリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
 全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。
ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

 使徒パウロはエペソ2章で次のように書いています。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 神様に喜ばれるような人間ならまだしも、神様に文句を言い、神様を無視して歩み、不品行を重ねるような人間さえ神様が愛しておられるとは、なんと不思議なことでしょう。神様の愛は私たちの理解を超えた大きな愛です。それでパウロは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」エペソ3:19と書いています。
 もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けてあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決してあげようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思いません。私が造ったもののために苦しむことはありえないからです。しかし、イエス様はそれをしてくださったのです。自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。イエス様は私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。イエス様の愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。

17:4 あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

 イエス様は成すべきわざをすべて行われました。最後の晩餐の席で、語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この後すぐに捕えられ、十字架で死なれること、そして三日目によみがえられることをご存知で、その覚悟ができていましたので、イエス様の考えの中では受難はすでに終わったこととされています。役目を終えたイエス様の父なる神様への願いは、再び、父なる神様の身元に帰って、栄光の中に住むことでした。それが主イエス様がご自身のために祈られた唯一のことでした。そして今度は弟子たちのために、私達のために祈られます。

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