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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書18章1-11節「ゲツセマネの園にて」


 本日の聖書個所から受難の場面に入ります。イエス・キリストが捕えられ、裁判をとおして十字架刑に処せられ、葬られ、そして三日目によみがえられるという一連の出来事に目が向けられます。

一、 イエス・キリストの弱さ

18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。
 最後の過越の食事をイエス様は弟子たちと一緒にされ、その晩餐の席で彼らにご自身の愛を残すところなく示されました。二階の大広間で、父なる神様の教えをすべて示されたイエス様は弟子たちを伴い、いつも祈りの場所としていたゲツセマネの園へ向かわれました。マタイとマルコ福音書では賛美の歌を歌ってから園へ行かれたと詳しく記しています。イエス様と歌う賛美はどれほど栄光に満ちた賛美だったでしょう!救い主の賛美はどんな賛美だったでしょう!

 ゲツセマネは「油絞り」という意味です。エルサレムのすぐ東側、オリーブ山のふもとにある園で、多くのオリーブが茂り、そのオリーブを絞ってオリーブオイルを生産したことからゲツセマネ「油絞り」と名付けられたのでしょう。静かな場所であったため、イエス様と弟子たちはエルサレム滞在中にいつもこの場所に集まり、またイエス様はここで祈られました。ヨハネはゲツセマネの園でのイエス様の祈りについて全く触れていません。すでにマタイ、マルコ、ルカの福音書に記されていたため重複を避けたのでしょう。このときイエス様は、
ルカ 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」とも書いてあります。ゲツセマネが「油絞り」の場所であることから、ルカ 22:44節では、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」と表現しています。

 ヨハネは12章27〜28節で
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。 父よ。御名の栄光を現してください。」
と記しました。これがヨハネによる福音書における「ゲツセマネの祈り」となっています。

 ゲツセマネの祈りは、天の栄光を捨てて肉体を取られ、人となられたイエス様の弱さを示しています。それは同時に肉を持つ人間の弱さを示しています。その証拠に、イエス様が祈っている間、眠りこけてしまった弟子たちに対して「誘惑に陥らないように祈っていなさい」ルカ22:40 と繰り返し語られています。ゲツセマネの園が「油絞り」という意味であるように、ここでイエス様も弟子たちも試練、誘惑に会い、絞られたのです。ゲツセマネの園が私たちに指し示すのは「試練や誘惑に合った時の人の弱さ」なのです。

※「誘惑」は「ペイラスモス」というギリシャ語が用いられており、この語は「試練」「誘惑」のどちらの意味をも併せ持っており、訳すときには前後の文章によって判断されます。

二、 イスカリオテ・ユダの弱さ

 そのゲツセマネの園にまずやってきたのはイエス・キリストの12弟子の一人、イスカリオテのユダでした。
18:2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

 ついさっきまで、最後の晩餐の席にイエス様とともにいて、足まで洗ってもらったのに、ユダは銀貨30枚でイエス・キリストを裏切りました。金に目がくらんでしまったのです。彼の弱さはお金に対する欲望でした。それまでも彼は預かっていた財布からくすねていました。良心が痛んでも、お金を手にすることを彼は選びました。「イエスを引き渡すだけで銀貨30枚がもらえる!(現在なら約100万円)おいしい話だ!」と思いました。しかし、事は彼が考えていたより重大でした。裁判でイエス・キリストは死刑とされました。「そんなはずではなかったのにーー。」彼は犯してしまった罪を後悔し、首を吊って死にました。お金に対する弱さが彼を死に追いやってしまいました。悪魔の誘惑に彼は負けてしまったのです。

三、兵隊と役人の弱さ

 イスカリオテ・ユダに率いられて来たのは、ローマの兵士一隊と、祭司長、パリサイ人達から送られた役人たちでした。真っ暗な真夜中に、たいまつを片手に武器を片手に、たった一人の人を捕まえるために大挙してやってきました。兵隊も役人も彼らは皆、雇われた人たちでした。おそらく彼らの中には誰もイエス・キリストを個人的に恨んでいる人は一人もいなかったでしょう。イエス様の顔さえ見たことがなかった人たちばかりでしたから、イスカリオテ・ユダに案内してもらい、指示してもらわなければ誰を捕まえてよいのか分からなかったのです。彼らは雇われ、命令に従ってナザレ人イエスを捕えに来ました。彼らはイエス・キリストを捕えることで社会に貢献していると思っていました。縦社会に住む一員として、命じられたことに従う従順な人たちでした。善いか悪いかを判断することはせず、ただ、雇い主の命令に従うことが自分の利益になると信じていたのです。

18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。
18:5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。
18:6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
18:7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

 ここで注目すべきは、イエス様のことばです。「誰を探すのか」・・「ナザレ人イエスを」という返事に、「それはわたしだ」と言われました。このことばは以前にも学んだ「エゴーエイミー」というギリシャ語で、聖なる神の御名を示すことばです。8章58節で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言われた時のことばと同じです。それはご自身が聖なる神と同一だと言っておられるのです。それでユダヤ人たちは「神への冒涜だ」と決めつけ、石を取ってイエスを殺そうとしたのです。18章では文面は異なりますが、イエス様はあえてこのことばを用いられているのでしょう。人々の探していたのは「ナザレの町出身のイエス」という男でした。「わたしはここにいる」と言いつつ、ここにいるのは、「わたしは聖なる神である」というイエス様の確固たる主張です。その迫力に押されて、大の大人たちが後ずさりし、倒れてしまうほどでした。

四、弟子たちの弱さ

18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

 イエス様はこの身震いするような状況の中でも弟子たちを守ろうとされました。「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」と。ペテロは恐ろしさのあまり、我を忘れて剣で打ちかかりました。しかし、イエス様はその行為を止められました。もし戦うことが父なる神様の御心なら、イエス様が一瞬のうちに兵隊たちを死に至らしめることは簡単なことでした。
マタイ 26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
 なぜ、イエス様は反撃されなかったのでしょうか?ーーその理由ははっきりしています。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」イエス様はご自分が十字架に架かり、苦しみ、死ぬことを覚悟されていました。そして、それが父の御心だと理解されていました。
 ※福音は、暴力や不正によってもたらされたものではありません。それは神の愛と恵みによってもたらされました。神様の救いは、一度も罪を犯されなかった御子イエス・キリストの尊い犠牲の上に私たちに与えられています。このことは私たちの生活に適応すべきことです。暴力や不正によっては本当の幸せはもたらされません。裕福になることや、地位や名誉をいただいてもそれは本当の祝福ではありません。神様の祝福は、神様のみこころに従い、善を行う者の上にあるからです。

 イエス様が反撃されないのを知るや否や、弟子たちは逃げ去ってしまいました。マタイとマルコは、彼らが「イエスを見捨てて逃げ去った」と記しています。人々をイエス様の元へ導いたアンデレさえ逃げていきました。ヤコブもバルトロマイもこの時から姿を消しています。誰も最後までイエス様とともに居ようとした気丈な人はいませんでした。なんと情けない弟子たちでしょう。ついさっきまで一緒に食事をし、声高らかに賛美をしていたのに!彼らは主イエスと共に歩み、多くのしるしを見、そして自分たちも主に遣わされて神の国の福音を宣教し、多くのしるしを行ってきたのに。その弟子たちが主を見捨てて逃げてしまったのです。まさにゲツセマネの園は試練と誘惑の場所であり、人の弱さを集めた場所となってしまったのです。

 そして私たちが学ばなければならないことがもう一つあります。それは私たちも同じ弱い人間だということです。もし、その場所にいたなら、弟子たちとともに逃げたことでしょう。誘惑に対して、私たちは何度つまづき、主を否んだことでしょう。
 ただ、イエス様に感謝します。イエス様は私たちの弱さに同情できないかたではありません。御自身が十字架の苦しみと死を前にして震えおののき、苦しまれたからです。弱い私たちのために「彼らを去らせなさい」と願われました。それは私たちを一人も失わないためでした。一時的にイエス様を見捨てたとしても、再び主の元に戻ってくることを信じてイエス様は祈られたのです。何という主の深い愛でしょう。救い主を知ることは何という喜びでしょう。
 願わくば「ナザレのイエス」として探し求めるのではなく、「エゴーエイミー」と言われたお方、永遠の救いの神としてこのお方を探し求められますように。

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