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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書18章28-40節「真理とは何ですか」


 前回は大祭司の前における裁判の箇所でした。永遠に立てられるまことの大祭司イエス・キリストが、人間の大祭司に裁かれる皮肉ともいえる場面でした。そして一連の出来事をまとめるなら、(ヨハネは記していませんが、他の三つの福音書が記しています)祭司長や長老たちは夜が明けるとすぐに議会を召集し、正式に死刑の判決を下しました。そしてイエス・キリストをローマ総督ピラトのもとに引っ張っていき、死刑を求刑しました。
ルカ22:66 夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、
22:67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
22:68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
22:69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
22:70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。
22:71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。
23:1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
23:2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」

 これには当時のさまざまな事情がありました。ユダヤの最高議会は律法の規定により夜中には開くことができなかったため、夜が明けるやいなや議会が開かれました。彼らの目的ははじめからイエス・キリストを死刑にすることでした。しかし当時はローマ帝国の支配下にあり、死刑を実行することは認められていませんでした。それはローマ帝国に組するものをユダヤ議会が勝手に処刑することを阻止するためでした。そのためユダヤ人の指導者たちは自分たちでイエス・キリストを死刑に処することができず、ローマ総督に訴えて死刑を求刑したのです。
※ヘロデ王によるバプテスマのヨハネ処刑(マタイ14章)や、使徒の働き7章におけるステパノ殺害、また、ヘロデ王によるヤコブ処刑を考えると、議会に対する死刑禁止は一時的であったか、ヘロデ王には認められていたのかもしれません。

一、ローマ総督ピラト

18:28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。
18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」
18:30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」
18:31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」
18:32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。

 ローマ総督ピラトにとってイエス・キリストは特別に関心のある人物ではなかったようです。近頃、ユダヤで騒ぎを起こした新しい宗教の指導者としか見ていなかったのでしょう。ピラトはローマ帝国の総督としてユダヤの国を治める任務を受けて赴任してきました。ベンハーの映画でもピラトの心境をよく描いているのですが、ユダヤという国はヤハウェという神に忠実で、ローマ帝国にとっては何かと厄介な国として映っていたようです。ピラトは自分が総督としている間はもめごとは避けたい、総督という地位を失いたくないと思っていました。ですからイエスという被告人が連れてこられたときも、ユダヤ人の告発に対して「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」と厄介払いしようとします。しかしユダヤ人たちは「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」と引き下がりません。

 ここでピラトにも告発の理由が見えてきました。ユダヤ人らはイエスという男の死刑を求めているということです。こうなると総督ピラトの仕事になってしまいます。仕事であるからには誤った判断を下して左遷されてはかないません。ピラトは重い腰をあげて事情聴取を始めたのです。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」
18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。

 総督ピラトの最初の質問は「あなたはユダヤ人の王ですか」でした。これがユダヤ人から出された訴状でした。ユダヤ人指導者たちが最も嫌悪したことはイエス・キリストが自分を神と等しいとした点にありました。しかし、それではローマ総督に訴える理由として不十分でした。そこでユダヤ人たちは、「彼は自分のことをユダヤ人の王だと言ってローマ帝国に反逆を企てている」と訴えたのです。それでピラトは単刀直入に「あなたはユダヤ人の王ですか」と質問したのです。それに対するイエス様のことばは答えではなく、ピラトへの質問でした。
「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
 分かりやすく言うなら、「それはあなたのことばか、それとも他の人のことばか」・・・片づけ仕事のように思っていたピラトに、「もっと積極的に、真理を見つけるために取り組むように!」と仕向けておられるようです。ピラトは早く仕事をかたずけたいと考えていましたが、イエス様のことばは彼のそのいい加減な態度を叱責するほどの鋭さを持っています。ピラトが事情聴取しているのに、何かピラトが訊問されているかのようです。

 「あなたは何をしたのですか」・・ピラトの次の質問です。それに対するイエス様の答えは、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
 ここでイエス様がはっきりされたことは、この世とは違う別の世界があるということです。いわゆる「あの世」です。イエス様はその「あの世」の支配者であり、そこから来たのだと言われました。ピラトにとってはまさに別世界、異次元の話に聞こえたでしょう。それでピラトは最初の質問を繰り返しました。「それでは、あなたは王なのですか?」ーーイエス・キリストが「天にある永遠の国」について話しておられるのに、そのことにはまったく触れず、ピラトは「あなたは他の国の王なのですね」と訴えられた問題に戻っているのです。なんという霊的無関心、霊的無知でしょう。福音書の中で幾度私たちはこのような場面を見てきたことでしょう。水を汲みに井戸へやって来たサマリヤの女に、イエス様はいのちの水のことを話されたのに彼女は井戸の水のことしか頭にありませんでした。イエス様が霊的な食べ物の話をされたのに、弟子たちはパンを忘れてきたことで怒られていると思いました。ここで総督ピラトも同様でした。そこでイエス様は彼の霊的状態に合わせて答えられました。
「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
 再び、ピラトの目を真理に向けさせようというイエス様の思いが込められています。

二、真理とは

 総督ピラトの最後の質問は印象的です。「真理とは何ですか」ーー完全に逆転が起きています。判決を下す裁判官は法と事実に基づいて判決を下すはずなのに、総督ピラトは被告人に、「真理とは何ですか」という質問したのです。ピラトは自ら自分は真理を知らないと告白しているのです。そしてイエス・キリストに真理を教えてくれと本心ではないとしても願っているのです。それはイエス・キリストこそ真の裁き主であることを象徴しています。イエス・キリストこそ真理そのものであるからです。

 真理という言葉にこだわってみたいと思います。真理(アレセイア)という言葉は、「真実、本当のこと」とも訳せる言葉です。「真理とは何ですか」とは哲学的な質問です。一つの答えは、「物事の正しい理解」と言えるでしょう。目に見えるものや現実に存在するものは誰でも理解することができます。しかし、消え去ってしまった途端に、それらは証明が必要になります。たとえば、人が生きている間は存在は確かですが、死んでしまった途端に歴史上の人物となり、存在していたことを証明しなければなりません。見ることができないからです。それらは当時の写真や遺骨や証言によって証明されます。では、霊的なことや目に見えないものについてはどうでしょう?神様の存在、悪魔や天使の存在、天国と地獄の存在についてはどう証明できるでしょうか?誰がそれらを証明できるでしょうか?もちろん、人間は誰もそれらを証明することはできませんが、もし証明できるなら真理として受け入れるべきです。
 統計調査によると日本人の3割の人が何かしらの信仰を持っていると答えています。面白いことに「信仰を持っていない」と答えた人でも、その6割以上が「信仰心は大切、尊い」と答えています。「あの世の存在」についてはNHKの統計調査によると4割の人が信じると言い、3割の人がわからない、3割の人が信じないという結果でした。しかし、だれも「あの世」があることを証明することができません。ですから、天国はあってほしい、天国はあるに違いない、という願望なのです。
 しかし、イエス様のことばには確信があります。「わたしの国はこの世のものではありません」と語られて揺るぎません。その根拠はイエス様には証明するものがあるからです。それはご自身です。「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と語られたとおり、彼自身が証明であり、彼自身が真理です。なぜならイエス・キリストは天の国から来られた神の御子だからです。彼にはすべての権威が与えられていて、この世界の原則や法則に縛られてはいません。その事を明らかにするために、イエス・キリストはまずカナの婚礼において水をぶどう酒に変えられました。それはこの世の法則ではあり得ません。五千人の給食もこの世ではあり得ません。水の上を歩かれ、暴風を一瞬に静められました。イエス様はこの世の自然法則を完全に超越されています。死んだラザロをよみがえらせ、腐りかけていた彼の体を健康な体に戻されました。そして最後にご自身が十字架の死に打ち勝ち、墓より三日目によみがえられました。イエス・キリストには「死といのちの法則」も当てはまりません。ヨハネによる福音書で記されているすべてのしるしは、イエス・キリストがこの世の者ではないこと、「あの世」の者であることを証明しているのです。

三、疑い深い人

 疑い深い人なら聖書は作り話だと言うでしょう。しかし、聖書の成立と、目に見える写本は、これらの出来事が事実であったことを証明しています。もし聖書の記事がおとぎ話や昔ばなしの類であるなら、だれも聖書を神のことばとして信じず、書き写してこなかったはずです。また、イエス・キリストのしるしの証言者は12人の弟子だけではなく、少なくとも5000人以上です。イエス・キリストがよみがえったことの証言者は500人以上です。つまり、イエス・キリストが神の御子であることは十分な証明がされています。しかしそれを受け入れるかどうかは信じるか、信じないかに懸かっているのです。

 あなたはあなたの父母から生まれたと信じているでしょうか?ほとんどの人はそうだと思います。しかし、証明されたわけではありません。あなたは自分が親から生まれてきたところを見てはいません。親の証言、親せきの証言によっているのです。しかし、もしかすると、病院でほかの赤ちゃんと入れ替わったかもしれません。事情があって親の嘘かもしれません。現在はDNA鑑定というものがあって、親子であることの証明ができます。もし、DNA鑑定を受けて、親子である確率が99.999パーセントと判断されたら信じるでしょうか。疑い深い人なら残りの0.001パーセントは違う可能性があると信じるでしょう。事実、そのような事例がありました。2007年、アメリカのメリーランド州で裁判においてDNA鑑定が用いられたが、偶然の一致があり、判決がくつがえされました。日本でも2010年に「DNA型が一致したとして神奈川県警が、容疑者として逮捕状と家宅捜索令状を取った男性が、実際は事件とは無関係の別人と判明していたことがわかりました。警察庁が管理するDNA型データベースに誤った情報が登録されていたための人為的なミス。」でした。DNA鑑定を行うのも人間ですから、ミスを犯してしまうことがあるのです。

ですから、疑おうとするなら、どれほどの証拠をもってしても受け入れることが出来ないのが人間です。ですから、イエス様の言われたことばは重要です。「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」もし、あなたを愛して育ててくださった親を親として信じないなら、親子関係を築くことはできません。同じように、あなたにいのちを与え、愛しておられる神様を信じないなら、最大の損失を被ることになるのです。
 イエス・キリストのことばを聞いたなら、信じる人となってください。神様の存在も「あの世の存在」も人間の知識の及ばないところです。としたなら、真理は神様が与えられた証明によるのです。その証明がイエス・キリストです。キリストは神に背いて歩んでいる私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かり死なれました。そして、私たちを罪の世界から救い出すために墓よりよみがえられました。その証人と証言があります。どうか疑い続けるのをやめて、信じる人になってください。

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