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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書19章17-30節「主イエスのみごとな最期」


 総督ピラトはイエス・キリストに何の罪も見い出せなかったので釈放しようと努めました。しかし、ユダヤ人指導者たちの「十字架につけろ!」という怒号に恐れ、十字架での処刑を認めてしまいました。使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と読まれ、ピラトが悪者にされていますが、彼に同情すべきところもあります。イエス様も「わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」とピラトにことばをかけられました。神のひとり子を「十字架につけろ」と叫んだ人々の罪こそ大きいのです。そしてその群衆の中にあなたも私もいたのです。
 本日の聖書箇所はまさにイエス様の最期の場面です。十字架に架けられ、息を引き取られるまでが記されています。

一、ゴルゴダへの道

19:17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
19:18 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。
 十字架刑が行われた場所は、どくろ(頭蓋骨)と呼ばれる場所でした。ヘブル語でゴルゴダです。後にラテン語聖書「ウルガタ訳」に訳されたとき、頭蓋骨を意味する「カルヴァリア」が用いられ、それが英語の「カルヴァリー」となりました。ですから日本語訳聖書にはカルヴァリーという語は出てきませんが、聖歌には「カルバリ山の十字架に架かり・・」と歌われています。確かに「どくろ山の、頭蓋骨山の・・」と歌うのは難しいでしょう。
 この場所がどこであったかは確定されていませんが、現在の聖墳墓教会がある場所であったろうとされています。その処刑場まで受刑者は自分の十字架を背負って歩かなければなりませんでした。イエス様が歩かれた総督官邸の場所から聖墳墓教会までの道約1キロを、現在は「ヴィア・ドロローサ」と名付けられて巡礼者がイエス様の苦しみを覚えながら歩く通りとなっています。「ヴィア・ドロローサ」とはラテン語で「苦難の道、悲しみの道」という意味です。
 著者ヨハネは「ご自分で十字架を背負って」と記しました。ここにも霊的な示唆が含まれています。罪人が背負うべき十字架を、罪のない主イエス様が自ら背負ってくださったという真理です。ヨハネが著したかったことは、イエス様が自ら進んで十字架を背負い、自ら進んで十字架の道を歩かれたという真理です。少しもためらわず、まっすぐに十字架に向かい、私たちに罪の赦しを与えるためにイエス様はカルバリの道を歩まれたのです。

 マタイ、マルコ、ルカの福音書では、イエス様の衰弱があまりにも激しいために、十字架を背負って歩き続けることができず、兵士たちは途中でクレネ人シモンを見つけて無理やりイエス様の十字架を背負わせたと記しています。しかし、ヨハネだけは全くそのことに触れていません。ヨハネはイエス・キリストこそ輝かしい神の御子であり、私たちに罪の赦しを与えられる救い主だと示すため、イエス様の人としての弱さを著わしていません。ゲッセマネでの主の祈りを記さず、また、十字架上での七つのイエス様のことばのうち、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」ということばも記していません。ヨハネはイエス様の人間性ではなく、神の子としての神性を示そうとしているのです。

 イエス様が十字架に架けられたとき、両側にも受刑者が架けられました。これは全世界を表す象徴です。世界はイエス様を真ん中にして右に立つか左に立つかどちらかなのです。イエス様の右側に磔にされた人と同じようにイエス様を救い主として受け入れるか、左側についた人と同じようにイエス様に暴言を吐き、信仰を持つことなく死んでいくかどちらかなのです。「世」という漢字で表されているのは三本の十字架で、右側は真ん中の十字架とつながっています。しかし、左の十字架は下に落ちています。あなたはどちらに立つでしょうか?イエス様の右側に立つならばイエス様につながり、永遠のいのちを受け、決して地獄に下ることはありません。

二、罪状書

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」

 ピラトはイエス・キリストが架けられた十字架の上に、『これはユダヤ人の王、ナザレ人イエス』と書いた罪状書を付けさせました。ユダヤ人は抗議しましたが、ピラトは「私の書いたことは私が書いたのです」と言ってはねのけました。不正な判決を求められたユダヤ人に一矢を報いたのでしょう。
 聖画でイエス様の十字架の上に「INRI」 と書かれたものがありますが、これはラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語です。実際はヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の三つの言語で略さずに書いてありましたので大きな罪状書であったと思われます。ヘブル語というのはユダヤ人の宗教のことばでした。ラテン語はローマが用いていた支配者の言葉でした。ギリシャ語は当時の世界で広く使われていた共用語でした。多くの神学者はこの罪状書の宣言はまずイスラエルに対してなされ、次にこの世の権力者たちに、そして全世界の人々に対して宣言されたものであるとします。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス。」これは罪状書でしたが、図らずも全世界の人々に対する神様の宣言となったのです。

三、着物を分ける

19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。
 兵士たちがイエス様の着物を分けたのは、旧約聖書、詩篇22篇の預言の成就であったことをヨハネは見逃しませんでした。詩篇22篇はまさにメシア預言の箇所です。次のように預言がされていました。
詩篇22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。

 この預言はイエス・キリストがお生まれになる千年も前に記されました。誰が読んでもイエス・キリストのことを預言していたと理解できるでしょう。歴史は神様の御計画の通りに進んでいるのです。

四、母マリヤへ愛

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
 十字架での激しい痛みの中でさえ、イエス様はご自身の母親を気遣っておられました。イエス様は一人の弟子に母マリヤのことを委ねられました。この弟子が誰であるかははっきりしていません。彼は大祭司の知り合いで、ペテロを大祭司の庭に入れるために取り次ぎをしました。また、イエス様がよみがえったときにはいち早く墓にかけつけました。彼はこのヨハネによる福音書のために多くの証言をした人でした。この弟子はおそらくヨハネ自身であったろうと考えられています。
 いずれにしても、イエス様がご自分の母親マリヤのことを大切にされていたことに目を向けるべきです。「あなたの父と母を敬え」と律法にありますが、命令だから従うというのではなく、それが私たち人間として当然のことだからです。時代が変わったとしてもこの戒めは変わることがない真理です。ヨハネによる福音書ではイエス様の最初のしるしはカナの婚礼でのしるしでした。それは母マリヤに対するイエス様の思いやりであったとお話ししました。十字架に架けられた最期のときにもイエス様は母マリヤを思いやっておられたのです。

五、みごとな最期

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

 十字架上でイエス様が語られたことばは七つありますが、そのうちの三つをヨハネは記しています。母マリヤに対する「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と、「わたしは渇く」そして「完了した」です。神の御子であるイエス様がこの世にお生まれになった目的が達成したのです。それは私たちが受けるべき罪のさばきを身代わりに受けることでした。父なる神の御心に従い、十字架に架かり、旧約の律法で示されていた全焼のいけにえの完全な完成として血を流し、罪の赦しのための贖いとなられました。
 人がどう生きてきたかはその死に様で分かると言われます。イエス様の最期はみごとな死に様、みごとな最期でした。「完了した」ということばに、イエス様の「やっと終わった、走るべき行程を走り終えた」という達成感を感じます。また、この「完了した」には、最後の晩餐の席で教えられた、「新しい契約」の締結が宣言されています。
マタイ26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
 晩餐の席では新しい契約が象徴的に教えられましたが、その完成は十字架においてであり、血が流されたことにより、契約が結ばれたのです。
 聖書全体を読んでわかることは、まさにこの時が神様が人間のために備えられた歴史の中で最も重要な時であったという事実です。人が創造され、罪の中に失われてしまい、神様の祝福を受けることができなくなってしまった状況の中で、神と人が交わりを回復するための唯一の方法が十字架でした。

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。


 神の御子であるキリストが自ら十字架を背負い、死んでくださったのです。なんと大きな主の愛でしょう。このようなすばらしい救い主が与えられていることは、なんと感謝なことでしょう。使徒パウロは次のように告白しています。
ガラテヤ 6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
 十字架こそキリスト者の誇りです。そこに私たちの罪も釘づけにされたからです。

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