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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書19章31-42節「墓に葬られた主イエス」


 イエス・キリストの十字架は、父なる神様が御計画された事であり、聖書に記された預言の成就でした。十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」でしたが、それは全世界の人々に対するメッセージでした。

1.過越の祭り

19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
 著者ヨハネはこの出来事が安息日の前日、つまり金曜日の出来事であったと記しています。そして次の日の安息日(土曜日)は過越の大祭と重なっていました。過越の日はアビブの月の14日と定められていますので、単純に考えれば金曜日は13日となります。そのため、13日の金曜日が不吉な日として言われるようになりました。しかし、旧約で定められた「14日の夕暮れに」という記述により、ユダヤでは14日の夕方(日没前に)から過越が始まり子羊がほふられました。そして陽が沈むとすぐに翌15日になり、過越の食事となります。ですからイエス様が十字架につけられた日はすでに14日であったことになります。現在ではイエス様が十字架に架かられたのは13日ではなく14日の金曜日という見解が一般的です。
※次のページを参照してください。過越の祭りと十字架の日付

 過越の祭りについて説明しておきたいと思います。この祭りは神様がイスラエルをエジプトの国から救い出されたことを記念する祭りでした。神様は指導者モーセを立て、イスラエルをエジプトの国から大いなる御業を持って救い出されました。その時、次のように過越の祭りが定められました。
出エジプト記
12:1 【主】は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは【主】への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

 この祭りには神の救いの啓示があります。神のさばきから人々を救い出すために小羊としてほふられるイエス・キリストの姿です。「傷のない子羊」とは「罪のないキリスト」のことです。子羊はほふられた後、食され、朝まで残してはいけないとされています。それは十字架上で死なれたイエス様の遺体がすぐに取り降ろされたことを表したのでしょう。そして、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」とは、キリストの血により罪が赦され、神のさばきを受けないことが約束されています。過越の祭りで行われた一部始終は、イエス・キリストの受難とそして救いを啓示していたのです。

2.預言の成就

19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。
 ローマ帝国における十字架刑では、受刑者は木に架けられたまま見せしめのために長期間放置されることが常でした。しかし、ユダヤ人たちは過越の祭りが始まることもあり、律法の規定に従って遺体をおろすことをピラトに願いました。
申命記21:22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 ここにも律法に忠実なユダヤ人たちの姿を見ることができます。しかし、彼らは神様の御計画と御心を知らずに御子キリストを十字架につけて殺してしまったのです。しかし、彼らがキリストを十字架につけることもまた神様の御計画でした。イエス・キリストは父なる神の御心に従い、私たちの救いのためにのろわれた者となってくださったのです。

 通常、兵士たちは受刑者の死を確認するためにすねを折りました。万が一、受刑者が息を吹き返しても脱走できないようにするためでもあったようです。しかし、イエス・キリストの死は明らかでしたので、その必要がないと判断したのでしょう。すねを折ることをしませんでした。ただ、念のために槍で突き刺し、死亡を確認しています。ヨハネはこのことも旧約聖書の預言の成就だと見逃さずに記しています。次の旧約聖書の箇所です。
詩篇 34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
ゼカリヤ 12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。


3.霊的真理


 兵士がわき腹を槍で突き刺したとき、イエス様の体から血と水が流れました。なぜ水が出てきたのか、どのように血と水の判別ができたのかはわかりません。しかし、ヨハネはこのことを手紙の中でもとても重要な霊的真理として取り扱っています。
Tヨハネ5:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
5:7 あかしするものが三つあります。
5:8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

 抽象的ですので解釈が難しいのですが、多くの解釈者の意見は「イエス様は、水と血と御霊によって、私たちの贖い主であることを証されている」ということです。水をバプテスマと解釈する人もいますが、人々の心を洗い清める神の御言葉と考えてよいでしょう。血とは、罪の赦しのために流されたイエス様の契約の血です。そして神の御霊がイエス・キリストを証明されたのです。イエス様はこの3つを持ってお生まれになり、3つのものによって証しされ、3つのもののために歩まれ、そして3つのものを父なる神様に返されたと言えます。十字架上でイエス様は「父よ、我が霊を御手にゆだねます」と叫ばれました。父なる神に霊をお返しになり、そして血と水を注ぎ出されたのです。

4.信仰者の証

19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
19:41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

 38節以降には二人の人が登場します。アリマタヤのヨセフとニコデモです。アリマタヤのヨセフは裕福な人でユダヤ人の最高議会の議員の一人でした。ニコデモもまた、議員の一人でした。夜に人目を避けてイエス様の元にやってきて、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。」と質問した人です。彼が福音書で登場するのはここで三度目となります。
 彼らはイエス・キリストに好意的な態度を持っていました。特にニコデモはイエス様との会話を通して信仰を持ち始めていたと思われます。しかし、「イエスを十字架につけて処刑しよう」という議会の判断にノーと言うことができませんでした。それは総督ピラトと同じように、自分の地位と名誉を守るためでした。議会の判決に憤りを感じながらも反対することができずにいたのです。総督ピラトの前で「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ人々の声に黙っていました。おそらくゴルゴダの場所に彼らもいて、イエス・キリストが十字架で苦しんでいたとき、彼らは涙を流し、後悔したことでしょう。ローマの百人隊長ですら、「この方はまことに神の子であった」と告白したのに、自分たちは何もできずにいることを嘆いたことでしょう。そして、イエス様が亡くなられた今、自分たちにできることをしたいと願い、イエス様の遺体を引き取り、墓に葬りました。それはとても勇気の要る行動でした。

 これはクリスチャンにとって教訓となる証しです。信仰者として歩んでいても、人の顔を恐れて本当は主張したいことを主張できずにじっと黙っているときがあります。それが必要な時もあれば、黙っていることが不信仰の罪である時もあります。それゆえ私たちは後悔して苦しむのです。しかし、イエス様のために自分ができることを見つけたなら、それをしようと決心することは素晴らしいことです。賛美が自分にできることだと確信したなら、恥ずかしがらず賛美しましょう。献げることが自分の賜物だと確信したなら、心から惜しみなくささげましょう。掃除すること、料理でもてなすことが私の賜物だと確信したなら、進んで行いましょう。友人を教会へ誘うこと、新来者を歓迎すること、個人伝道があなたの賜物なら、大いに賜物を用いましょう。主の支えと豊かな報いがあることを信じて行いましょう。かつては神様のために何の役にも立たなかった私達ですが、十字架によって救われた今は神様の役に立つ者となったのです。そして、それぞれが賜物を用いて仕え合う時に、教会は本当の意味でキリストの体として生きている教会となります。

 イエス様の遺体は新しい墓に葬られました。そしてイエス様は勝利のうちに墓の中からよみがえられました。(新しい墓で、誰も入っていなかったということは重要です。というのはイエス様がよみがえられたときに墓が空っぽになっていたことを証言できるからです。もしも別の遺体があったとしたなら、それがイエス様の遺体でないことを証明しなければならなかったでしょう。)
 ベツレヘムの薄汚れた家畜小屋でお生まれなった御方が、「どくろ」という場所でのろわれた者となって木に架けられ死なれました。誰もそのような場所を誕生の場所、死去の場所として選びたいとは思いません。しかし神様はあえてそのような場所をイエス・キリストのために用意されたのです。それは彼の貧しさによって私たちが富むものとなるためです。このイエス・キリストから神様の恵みがあふれ、罪の赦しと永遠のいのちが与えられています。

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