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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書20章1-18節「イエス様はよみがえられた!」


 ゴルゴダの場所に共に居て、イエス様の受難を見届けた弟子たちや女性たちの心境を考えると、心が引き裂かれる思いだったに違いありません。アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、そこにニコデモも来て葬りのための没薬を備えたことはこの暗く重い出来事をいくらか柔らげてくれました。
 十字架を説教することは説教者の大きな喜びですが、同時に心が滅入ることでもあります。イエス様の手に釘が打ちつけられた場面や、槍で突き通された場面、イエス様の体から血が滴り落ちている姿を思い浮かべると、胸が締め付けられます。そしてその苦しみは私の身代わりであったことを思う時に、自分の罪深さ、愚かさに心責められます。ですが、今朝の聖書箇所からすべては一転します。晴れ晴れした気持ちで説教することができます。なぜならイエス様がよみがえられたからです!

 一連の出来事を振り返りましょう。共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書の記述と一致しないと思える箇所もあるのですが、ヨハネの記述に従って見ていきます。
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

 ヨハネはマグダラのマリヤを第一証言者として登場させています。マグダラのマリヤについて聖書は多くを記してはいませんが、「イエス様によって七つの悪霊を追い出していただいた女性」と紹介されています。七つの悪霊に縛られた人生とはどんなものだったでしょう。それは彼女の不品行やふしだらな生活が原因だったのかもしれませんが、いずれにせよ悪霊に縛られた人生は他の人々からも見捨てられ、何の希望も持つことができない悲惨な人生であったことに違いありません。その彼女の前にイエス様が現れて、悪霊を追い出してくださったのです。たちどころに彼女の人生は一変しました。それ以来、マグダラのマリヤはイエス様を心から愛し、従い続けました。イエス様が十字架に架けられた時にもそこを離れず、復活の朝、誰よりも早く葬りのための油を塗るためにイエス様が葬られた墓へ駆け付けようとしました。共観福音書が記すように他の女性たちも一緒だったのでしょうが、ヨハネはマグダラのマリヤを証言者の代表として出来事を記しています。

 マグダラのマリヤが墓に着くと、すぐに異変に気が付きました。墓に立てかけられていた大きな石がどかされていたのです。また、番兵たちも誰一人いません。マリヤはとっさに、「イエス様の遺体が盗まれた」と思い、すぐに弟子たちのところへ報告に行きました。彼女の報告を聞いてペテロともう一人の弟子が急いで墓へ駆けつけました。墓の中にはイエス様の遺体はなく、体に巻かれていた亜麻布と頭に巻かれた亜麻布が巻かれた状態で置いてありました。名探偵であるならこの状況を見て、「遺体は盗まれたのではない!」と判断するでしょう。なぜなら、もし遺体を盗むなら巻かれた亜麻布をわざわざほどかないでしょうし、ほどいた亜麻布を巻いた状態に戻したりはしないはずです。ペテロともう一人の弟子も疑問に思いながら帰って行ったことでしょう。(8節でもう一人弟子が「見て信じた」とあるがここでは何を信じたのかがはっきりしません)

 マグダラのマリヤも遅れて再び墓に到着しました。彼女は墓の前で呆然と立ち尽くし、涙していました。そして墓の中をのぞくと御使いが二人いるのを目撃しました。おそらく御使いを見るのは彼女にとって初めての経験だったでしょうから気が動転したはずです。(※現代の私たちに御使いが現れることはありませんが、聖書の中には幾度か御使いが人々の前に現れたことが記されています。その姿はほとんどの場合、白く光り輝いています。)
 御使いはマリヤに向かって「なぜ泣いているのですか?」と質問しました。マリヤは「誰かが私の主を取って行きました。」と答えました。そして背後に気配を感じて振り向くと、そこにも人が立っていました。マリヤはそれが誰なのか分かりませんでしたが、「マリヤ」と言う呼びかけにやっとイエス様だと気が付きました。そのあと、マリヤはイエス様に命じられた通り、再び弟子たちのところへ報告に行きました。

 主イエスが復活された朝の出来事を追っていきましたが、この聖書箇所から二つのことを取り上げたいと思います。

一、日曜日の朝

 イエス様がよみがえられたのは日曜日の朝でした。それには理由がありました。
@イエス様ご自身の預言
マタイ16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
 イエス様が墓に葬られたのは金曜日でした。日本で三日目と言うと月曜日になりますが、ユダヤ人の数え方は最初の日を含めて数えます。ですから三日目は日曜日となります。
マタイ 12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
 ここでも同じ考え方で金曜日の晩も含めてイエス様の復活は日曜日となります。

A日曜日の朝にイエス様がよみがえられたことは、新しい時代の幕開けと言えます。旧約聖書には神様が六日間でこの天地万物を創造され、七日目に休まれた事が記されています。この理由で七日目が安息日として定められ、神様が休まれたように人間も仕事を休むようにと命じられたのです。そして次の日曜日から新しい一週間が始まりました。そのため7という数字はユダヤでは完全や完成をあらわし、8は新しい始まりを意味しました。イエス様が8日目、つまり日曜日によみがえられたのは新しい時代が始まることを表しています。イエス様の十字架の血潮によって結ばれた新しい契約に基づく時代です。旧約の律法の契約は古いものとされ、新しい契約のもとに生きる時代が始まったのです。

B教会の誕生も日曜日でした。ペンテコステの日曜日に聖霊がくだり、教会が誕生しました。これはレビ記23章で規定された祭りの規定に啓示されていました。
レビ23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】にささげなければならない。
23:17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。

 過越の後の安息日の翌日はイエス様の復活の日曜日を示します。そしてその復活の日曜日から50日目のペンテコステの日に新しい穀物がささげられました。それは復活から50日目のペンテコステの日に聖霊が降臨し、教会が誕生することを予表していたのです。その時には「パン種を入れて焼かれるパン」がささげられました。それは旧約の律法ではとても珍しいささげものです。通常なら、純粋なささげものと言う意味でパン種を入れないで焼かれたパンがささげられるのですが、この時だけは違います。これは異邦人が神様の契約に入ってくることを予表しています。異邦人は旧約聖書では常に汚れた民、偶像の民として忌み嫌われています。神様の契約はイスラエルと結ばれ、異邦人は契約についてはまったく蚊帳の外でした。しかし、ペンテコステ以降、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、新しい契約の中に異邦人が加えられたのです。「パン種を入れて焼かれるもの」とはそのことを予表していました。

 このようにイエス様が日曜日の朝によみがえられたのは神様の御計画でした。ですから、日曜日は初期のクリスチャンによって主日と呼ばれ、礼拝が日曜日に持たれるようになりました。教会がなぜ日曜日に礼拝を持つのか、それはイエス様がよみがえられたからです。日曜日こそクリスチャンがイエス様の復活を記念し、礼拝をささげるにふさわしい日なのです。
 私たち一人一人が主の復活の日曜日を聖別して、心から礼拝を尊び、兄弟姉妹と共に集って賛美を捧げつつ礼拝するなら、どれほどの祝福があることでしょう。世の中には高いお金を払ってコンサートや講演会を聞きに遠くまで出かける人もあります。一時的な経験や感激を得るためにそうするのですから、永遠に続く祝福をいただく日曜日の礼拝にはどれほどの価値があることでしょう!また、クリスチャンは教会の礼拝の主催者だという事を覚えてほしいと思います。キリストの体の一部として、お客さんではなく主催者、お招きしてもてなす側にいるのです。誰をお招きするのかと言えば、もちろん新来者や、求道者の方々をお迎えして、歓迎します。そして何より私たちがお迎えするのは主イエス様です。私たちの教会にイエス様をお迎えして礼拝を持つのだという意識があるなら、礼拝は熱のこもった喜びに満ちたものとなるはずです。礼拝に集われた一人一人が神様の祝福をいただいて感謝と喜びを持ち、世に証し人として遣わされていくーーそんな教会こそ神様が喜ばれる教会なのです。

二、なぜ泣いているのか

 もう一つの点に注目したいと思います。それはマグダラのマリヤにかけられた御使いの言葉とイエス様のことばです。「なぜ泣いているのですか?」ーー御使いもイエス様もマリヤの心の状態を知っていたはずです。しかし、あえて「なぜ泣いているのですか」と問われました。それは「なぜ泣く必要があるのか?」ー「もう泣く必要はありません!」というメッセージなのです。ルカによる福音書では御使いの言葉は続いています。
ルカ24:5「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。


 イエス様がよみがえられたことは、まぎれもない事実でした。主は死んでしまったと悲しみに沈んでいたマリヤに、「なぜ泣いているのか」と問うことにより、ご自身がよみがえったことを示されました。歴史の中でイエス・キリストの復活の事実を葬り去ろうとする多くの試みがなされてきました。弟子たちの妄想だとか、キリスト教を作るための虚言だったとします。また、有りもしないことが言われるようになりました。「イエスは仮死状態だったのが息を吹き返して、生き延び、外国へ逃亡してマグダラのマリヤと結婚した」とする話や、「十字架についたのはイエスの弟で、本当のイエスは生きていて、日本にも渡って来て宣教した」など、復活を信じたくないために、とうてい信じがたいことを吹聴している人たちもいます。けれど、歴史はキリストがよみがえられたことを確実に証明しています。それは脅されても、いのちを取られても証言をひるがえさなかった弟子たちの宣教です。その宣教があったからこそ現在でもキリストの福音が世界中に宣べ伝えられているのです。
 もし、キリストがよみがえらなかったのなら、キリストの教えは伝えられなかったでしょう。それは無意味だからです。もしキリストがよみがえらなかったのなら福音を宣教することは愚かなことです。しかし、キリストは墓の中からよみがえられました。反対者たちがキリストの復活を否定したかったのなら、キリストの遺体を人々に見せるだけで事は済んだのです。しかし、ローマの兵隊たちは守衛していたイエスの墓に遺体を見つけることができませんでした。墓は空っぽだったからです。今日、どうぞ確信してください。「イエス様はよみがえられた!」と。

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